第一幕 ニ頁 心、此処ニ不在➁

「介護保険で入った金……母さん、此の儘……使い果たす気でいるよ。

何時も来ては言うんだ。

何か足りない物はないか、何でも困ったら言ってと。

……雛子(ひなこ)の前では、何時もそう言っては贅沢をさせる。

お陰で雛子はどんんどん我儘になって行くよ。

……当たり前の様に、妻の叶恵(かなえ)の前でも、平気でボーイフレンドを呼ぶんだ。

まるで、自分の夫の様に周りにも言い張っているよ!」


義治はそんな事で怒っていたらしい。


「外に出れば父さんには母さんの気配すら感じる事は出来ないんだ。

確かに、保険が入る時に限って化粧の匂いをさせて出掛けていたよ。

けれどな……義治。

……其れを一々何処に行くのかと聞いたところで、何になる?

……父さんは目が見えないんだ。

確認する事も出来ないし、止めようとも思わないよ。

十分に不自由無い生活をさせて貰っているんだ。

此の家の何処にいても父さんは不自由一つ感じた事は無い。

まぁ、落ち着いて……。母さんの愚痴なら幾らでも聞いてやる。

時間だけはあるからね」


「いい加減に目を覚ませよっ!」


視力の無い僕に、目を覚ませと……あの時、確かに義治は言い放ったのだ。


怒号などではなく、他になんの音も介入させない程……真っ直ぐで澄んだ声だった。


そしてガチャッと何か聞きなれない音がした……。

其の音と同時にラジオの音が止まった……。


視力を失ってから、毎日欠かす事なく流れていたクラシック音楽が消えたのだ……。


漣は次第に何かに変わって行く。


慣れた筈の一定のリズムを刻んで来た筈の心が、騒めいてならない。


「何をするっ!」


僕は事もあろうか、折角会えた息子に、怒鳴ってしまった。


そんな筈じゃない!


僕は冷静で漣の様に生きられるだけで幸せだったのだ。

こんな安っぽい感情などと言うもので、家族を壊してしまう様な愚者にだけはなりたくは無い。


目を閉じて、聞こえない……。


其れでも幸せだと、微かにでも笑えれば其れで良かった筈じゃあないか。


慌てて自分に問うて軌道修正する方法を考え、再び何故かラジオのスイッチを必死で手探りで探した。


「父さん……其のラジオ……母さんがちゃんと父さんにも介護保険を使っていたら、もっと見えなくてもチャンネルをボタン式で変えられるラジオを買えた筈なんだよ。

とっくに会話が沢山あって、色んな音や声の在る世界を選べた筈なんだ。


頼むから……親父。

もう、ラジオに逃げるの……止めてくれよ。


目が見えなくても、自分を恥じる理由にはならないじゃないか。

母さんにちゃんと言えない方が、よっぽど情けないと思わないのか?


さっきから綺麗言ばかり並べているけれど、違うよ。

醜くても母さんは母さんだろう?

ちゃんと、見て……聞いてやってくれないか」


そんな事を義治は言うのだ。


そうだ……。

何も聞こえず……何も見えない間に、義治も人の親として立派に成長したのだ。

此れはもう、大人の男と男の話だ。

そう思って聞いてやるべきだ。


子供の成長を感じて喜ばない親が何処にいると言うのだ。

僕は喜んで良いのだ。

立派に意見を述べる事が出来る様になった義治を、誇りに思って……。


なのに何故……僕は……。


「分かった様な口を聞くなっ!」


そんな事を言ってしまったのだろう。


視力の無い今、僕にとって大事な耳と口。

残された大切なもので、誰よりも会いたかった大切な者を傷付けてしまうとは……。


またもや、つい思ってしまった。

罰当たりな事に……今度は口さえも無かったらと、そんな事を……。

たった一瞬の迷い……そう思いたい……。


「あんたよりは、あんたの事が見えてるよ!」


義治はそう叫ぶ様に言うと、ラジオを必死でまた着けようとする僕の肩を鷲掴み、椅子ごと半ば強引に回し、自分の方を振り向かせた。


乱暴な言動だった。

漣の上を壊す様にバシャバシャと跳ねる鳥の様に。


それでも確かに気付いていたのだ。

僕が知らない僕の事を、しかと其の目が見ていたに違いない。


「なぁ……親父。……じゃあ……さっきから


何で泣いているんだよ……」


漣に落ち……其の静かな揺らぎを壊したのは、義治でも他の誰でもない。


……己が落とした……”感情”と言う名の涙であった。



義治の声が

音と成り漣を変えた

我が心の音を見渡せる程の一陣の風は

まるで……

忘れ掛けた鈍色の季節の旋律を奏でる


もう一度…アンコールに立ち上がる

輝きしあの君と生きた夏


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る