第12話 受け止めきれない現実
Side—瞳子
まるで水槽の中に閉じ込められているかのように歪んだ視界には、夫の背中が映っている。
その隣には、見覚えのない、みすぼらしくやせ細った女。
艶のない髪で背中を覆い、さも親し気に朔也に寄り添っている。
こちらから、感情は見て取れない。
朔也はまるで守らなければならない存在は、その女であるかのように、彼女の肩を支えていた。
聴覚は膜で覆われたように鮮明さを失い、医師の言葉が受け入れられない。
「出来る限り手は尽くしましたが、息子さんは、もう……」
血の気を失くした顔で医師は俯いた。
朔也から連絡があったのは、30分ほど前の事。
瞬の大好きな大学芋を作ろうと思い立ち、キッチンに立った時の事だった。
『今、救急車! 瞬が、瞬が――。旭丘救急病院に今すぐ来てくれ』
咄嗟に想定した最悪の事態。
うっかり小麦製品を口にしたのだろうか?
激しい腹痛に嘔吐? 呼吸困難?
待ち構えていたのは、それよりも最悪な事態だった。
急激なアレルギー症状による呼吸停止。アナフィラキシーショックにより、心肺停止に至った瞬の脈拍は、救命医たちの懸命な処置でも戻る事はなかった。
静まり返った処置室からは、医療器具が片付けられる金属音だけが、虚しく響いていた。
その音が何を意味するのか、瞳子は知っている。
未来のない胎児を、処理した後の虚しい音に似ていた。
頭から頬、首筋までが一気に冷たくなった後、指先にじーんと痺れを感じた。
混乱、絶望、悲しみ。その後からじわじわと恐怖が押し寄せる。
現実を知る恐怖だ。
「いや……いやぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
悪い夢ならば、すぐに醒めて。
「瞬ーーーーー。瞬……。帰って来て、瞬……行かないで。ママを置いて行かないでーーーー」
「瞳子。大丈夫か?」
取り乱す瞳子を、朔也が支えようと手を伸ばした。
その手を振り払った。
「触らないで!」
「落ち着いて聞いてくれ」
「やめて! 何も聞きたくない。瞬を返してーーーーー」
混乱の中、憐れむように瞳子を見つめる女と目が合った。
その後の記憶がない。
瞳子は意識を失い、夢を見ていた。
ピピーーーーー機械音がなり『血圧が下がっています!』
看護師の緊迫した声が響く。
『心音が聞こえません』
『このままだと母体が危ない。帝王切開に切り替える』
医師は、瞳子の手を握っていた、青ざめた顔の朔也に訊ねた。
『母体と赤ちゃん、選択してください。赤ちゃんを助ければ母体の命の保証はありません。母体を助ければ、赤ちゃんは……』
『妻を、妻を助けてください』
そんな会話を、痛みで朦朧とする意識の中で聞いていた。
朔也の言葉を否定しようと、必死で首を横に振る。
『赤ちゃんを、お願い、赤ちゃんを、助けて』
夢はそこで途絶えた。
忘れもしない。瞬を産んだ時の事だ。
瞳子は度々この夢を見ては、朝方スヤスヤと隣で眠る瞬を抱きしめた。
カーテンで仕切られた、ベッドだけが置かれている空間で、目を覚ますと、傍に文也がいた。
泣きはらしたように、目は真っ赤。
筋肉質な体には、およそ似つかわしくない、憔悴しきった顔で背中を丸めている。
「瞳子さん、大丈夫?」
「私、どうしてここに?」
「気を失って倒れたんだ」
瞳子は、弾かれたように体を起こした。
わずかにズキンと頭痛を覚える。
「瞬は?」
何もかも夢だったのだ。ふと、そう思った。
倒れていた時に見ていた悪夢。
きっと疲れていたのだ。
「瞬は今、体をきれいにしてもらって静かな部屋で眠っている」
「そう。よかった。もう連れて帰れるかしら? あの子、お腹空かせてると思うの。担当の先生は?」
「瞳子さん……」
文也は気の毒そうに、瞳子の手を握った。
その温もりは、残酷な夢が現実だったのだと教えていた。
「嘘でしょう? 嘘よね? 嘘だって言って。何かの間違いだって言って。どうして瞬が……、まだ5歳よ。どうして? どうして……」
文也はごつごつとした大きな手で、瞳子の肩をさすった。
文也とて、同じ気持ちだったに違いない。
文也から嗚咽の声が漏れるたび、この残酷な出来事に現実味が増して行った。
「先生の話だと、お腹を空かせていた瞬は、準備されたお好み焼きを半分ほど勢いよく平らげたらしい」
「お好み焼き? どうして?」
「児山って女の人が作ってたらしいんだけど、彼女は瞬のアレルギーを把握していなかったんだ」
「そんなんでよく……」
そんなんでよく、もう一人のママだなんて言えたわね。
その言葉は喉につかえて出て来ない。
とめどなく溢れて来るのは嗚咽と、終わりのない涙。
そして、あの時、瞬を連れて行く事を許してしまった自責の念ばかりだった。
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