第10話 妻の涙

「深く痛ましい傷。同じ不運が二人の絆を深めるであろう」


(今、なんて? 同じ不運?)


 店主の言葉は朔也に不安をもたらした。


 同じ不運とは一体どういう意味なのか。


「ねぇ、朔也君、何にする?」


 カウンターの上に置かれている小さなイーゼルを手に取り、詩織が肩を寄せた。

 フードメニューは3つしかない。

 ナポリタン、ホットサンド、カレーライス。


「ん? ああ、えっと。ホットサンド」


「私はナポリタンにする。コーヒーも飲むでしょ?」


「うん」


 店主は会話を聞きながら頷き、伝票に注文を書き記している。


 詩織は、先ほどの店主の言葉が聞こえなかったのか、意に介していない様子で相変わらず店内に散りばめられている星たちを眺めている。

 4つほどあるテーブル席も、6席のカウンターも空っぽで、朔也たち以外に客はいない。


「あのね、今日、乃蒼の誕生日なの。ねぇ、うちに来てくれない?」


「あ、ええと、今日は10月5日か」


「そう、乃蒼の3歳の誕生日なの。もうあれから3年が経つのね。時が経つのは早いなぁ」


 詩織は、乃蒼が生きていると錯覚しているのか。

 ほころばせた顔は、まるで息子の成長を喜ぶ母親そのものだった。


 たとえ真似事でも、我が子の誕生日は特別な日だ。


 今日は瞳子が日勤で夜は在宅の予定である。

 断るのがセオリーだろうが、一人で亡き息子の誕生日を祝わせるのはあまりにも可哀そうに思えた。


 それに、もう瞳子には詩織の事は話してあるし、正直に伝えればきっとわかってくれる。


「うん。行くよ」


「瞬君も一緒に!」


「ああ、もちろん、瞬も連れて行く」


「うわぁ、嬉しい! 晩御飯作って待ってるね」


「ああ、楽しみにしてる」


「あ、手ぶらで来てよ。何も気遣わないで。食事もケーキも私が準備するから」


「あ、いや、あの……」


 この前、文也が来たあの日、風呂上がりに瞬は不調を訴えた。

 夕飯のハンバーグが原因だったかどうかは分からないが、瞳子が懸念した通り、お腹を壊し、体に発疹ができたのだ。

 瞳子は、鬼の形相で一層朔也を責めた。

 幸い、大事には至らず、次の朝には症状は治まったのだが。


「ケーキだけは買って行くよ」


「あら、どうして?」


「ケーキやお菓子は、買うお店を決めてて」


「そう。拘りがあるのね。じゃあ、任せるわ」


「うん」


「瞬君、魚介は大丈夫?」


「うん。それは大丈夫」


「お待たせしました」

 店主が、いつの間に作ったのか、ナポリタンとホットサンドを同時に出した。


「ありがとうございます」

 やっと感じ始める、コーヒーとケチャップの匂いが混ざり合う、喫茶店特有の匂い。

 昔ながらの鉄板の上で、ジュウジュウと湯気を上げるナポリタンは見ているだけで食欲をそそる。

「美味しそうだね。俺もそっちにすればよかったな」


「ホットサンドも美味しそう。半分こにしない?」


「いいねー、そうしよう」


 一つの皿から二人でナポリタンを啜り、ホットサンドを1つずつ分け合って食べた。

 どちらも絶品と言えるほど美味しく感じた。


 ◆◆◆


「ただいま」

 インターフォンの後、ドアの向こうから顔を出した瞳子は、「おかえり」とほほ笑んだ。


「パパ―、お帰り」

 その後ろから瞬が飛び出して来る。


「今日は芋ほり遠足だったのよ」


 瞳子は、玄関先に置いてある大きなレジ袋を指さした。


「ほぉ、瞬が採って来たのか? すごいなー、瞬」


「うん! 今日の晩御飯はサツマイモだよ」


「来週、朔也の誕生日よね。久しぶりに外食しない? 来週の金曜日、休み取ったのよ」


「ああ、そうだな。お寿司でも食べに行くか」


「ええ」


「あのさ、瞳子」

 キッチンに向かう、彼女の背中に話しかけた。


「何?」


「今夜、瞬と出かけたいんだ」


「そう」


「詩織の」

 と言いかけて。

「どうぞ」

 と被せられた。


「夕飯は?」


「食べてくる」


「そう」


 やや乱雑にエプロンを脱ぎ捨てると、瞳子はバスルームへと向かった。

 ジャーーーーーーーとシャワーが床を打ち付ける。


「ママどうしたの?」


「お風呂掃除かな」

 きょとんとしている瞬を抱き上げた。


「今日は、パパとお出かけしよう」


「うん……」


「どうした? 元気ないな」


「ママも一緒に!」


「え?」


「この前、ふみおじちゃんが言ってた。ママをのけ者にしたら可哀そうだろって。パパとママと瞬は家族だから、一緒にいなきゃダメだって」


「そうか。じゃあ今度からそうしよう。今日は、パパとお出かけだ。お友達の誕生会なんだ」


「ママは?」


「ママはお留守番」

 瞬は朔也を押しのけるようにして、床に着地すると、トコトコとバスルームにかけて行き、ドアを開けた。


「ママ」


 瞳子の足元に抱き着き、こう言った。


「ママ、お土産買って来るからね」


 瞳子は、涙を堪えるようにして瞬の目線に屈むと、抱きしめた。


「ありがとう、瞬」

「ママ、泣いちゃだめだよ。すぐ帰って来るからね」


 その姿に、さすがに胸が締め付けられる。


 詩織も、もう随分元気になった。

 そろそろ、終わりにするべきなのかも知れない。

 そんな想いが過ったが、今夜の予定をキャンセルする気には、どうしてもなれなかった。


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