第8話 女という生きもの

 それから一週間が経った。

 夫の誕生日を一週間後に控えた金曜日の事。

 瞳子が勤める産院で、今日、産まれて来るはずだった赤ちゃんが死んだ。


 死産だった。

 あちらの分娩台では産声が、こちらの分娩台では静かなうめき声が上がる。


 胎動が無くなった胎児を母体から取り出す方法は出産しかない。

 母親は、死産だと知ったうえで自然分娩により赤ちゃんを産むのだ。

 痛みによる生理的現象とは別の涙を流しながら、一人の若き医師と3人の看護師の介助を受け、産声を上げない赤ちゃんを産み落とした。


 産まれたばかりの赤ちゃんに準備されていたのは、新生児用のベッドでも保育器でもなく、真新しい産着と、小さな棺桶。


「可愛らしい女の子ですよ。2002g。おめでとうございます」

 院長の息子である若い医師はそう言って、泣かない赤ちゃんを産婦の胸元に置いてやった。

 母親は疲れ切った顔に安堵を浮かべて涙をこぼした。


「柔らかい……。あったかい……。ありがとうございました」


 きれいな涙だった。


 硬膜外麻酔による無痛分娩だったが、陣痛の痛みが全くないわけではない。

 耐えがたい痛みに耐え、対面する我が子との感動はひとしお。

 例え、明日には冷たくなってしまう命であったとしても、愛おしい存在に変わりはないのだ。


 ふと、一週間前に、『もう一人のママ』に対して吐いた、自分の言葉を思い出していた。


『瞬を、その亡くなった子供の代わりにするつもり?』


 医療従事者として、命の誕生を扱う現場の人間として、自分の言動を恥ずかしく思った。

 子を持つ喜ぶも、失くす悲しみも、人一倍知っていたはずじゃないか。

 児山という人物に対して、もっと思いやりの言葉を述べるべきだったのではないか。


 しかし、我が子を失った直後に、家庭のある男に恋愛感情を抱き、2年後にはその男と妻の息子に、自分を『ママ』と呼ばせる児山詩織という人物に、瞳子はどうしても同情する気にはなれなかった。


 そんな自分は、人間として最低なのか。

 産科の看護師として失格なのではないか。


 死産した赤ちゃんの処置を済ませた瞳子は、そのまま休憩に入り、クリニックの屋上に出た。

 ビルの狭間から覗く、うっすらと雲に隠された太陽を一人眺めていた。

 どんな表情であっても、毎日間違う事なく陽は上って沈む。

 そんな自然の営みに、何とも言えない不公平さを感じてやるせない気持ちになる。


「美月さん」


 背後からの声に振り返ると、先ほどの死産の出産の担当をした医者が、缶コーヒー二本を手に、やって来た。


あずま先生」

 青山東あおやま あずま

 このクリニックの院長、青山未来みき(女医)の息子である。


「ご苦労さま」

 東はそう言って、缶コーヒーを一本差し出した。


「あ、すいません。ありがとうございます」


「本当は夜勤だったんですよね? 今日」


「ええ。日勤で3人も欠員が出てしまって、それで」


「負担をかけてしまって、申し訳ない」

 東はさほど申し訳ない素振りはみせず、微笑みながら、瞳子と同じように太陽を眺めた。


「いいえ、仕事ですから」


「田中師長が心配してましたよ。この頃美月さん様子が変だって」


「すいません、ちょっと家庭で色々あって、ぼーっとしてしまって」


「そういう時もあります。女性は一番言いたい事に蓋をしてしまう生き物ですから」


「え?」


「僕、精神科医志望だったんですよ」


「へぇ、なぜ産婦人科に?」


「家督には逆らえなかった、ってとこですかね」

 東は皮肉な笑みを湛えた。


「僕でよければ相談に乗りますよ。もちろん、守秘義務は守ります」


「いいですよ。先生もお忙しいのに」


「若いので大丈夫です。大事なスタッフのケアも仕事のうちですから」


 全身からインテリジェンスを溢れさせ、屋上の手すりにもたれた。

 と同時に、瞳子と斜めに向かい合う形になる。


「蓋をした感情は、思わぬ方向に進んでしまう事がある。まっ、それも人生なんですけどね」


「まだお若いのに、人生語っちゃうんですね」


「若いって言っても、もう28です」


「まだまだ坊ちゃんです」


 二人の軽い笑い声がコンクリートに反響した。


「でも……ありがとうございます。何も言わなくても分かってもらえたみたいで、ちょっとすっきりしました」


「僕は何もわかってないですよ。ただ、あなたの笑顔がこの頃減った事ぐらいしかね」


「それは、看護師として由々しき問題ですね。気を付けます」


 仕事では従事者という立場だが、年齢的にはお姉さんである。

 大人らしく、丁寧に頭を下げその場を去ろうと東に背を向けた。


「あ、美月さん」


「なんですか?」


 振り返ると、まっすぐにこちらを向く東が少し神妙な顔をしていた。


「あ、いや、なんでも、なかったです」

 そういって、後頭部をくしゃっと掻いた。


「そうですか。それじゃあ失礼します。あ、コーヒーご馳走様でした」

 再び頭を下げて、その場を去った。

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