第6話 壊れ始める

 朔也と瞬は、お昼を食べたのだろうか?

 まだ公園で遊んでるのだろうか?

 そんな事を考え始めたのは、夕刻の風が冷たくなり始めた頃だった。


 ピンポーンとインターフォンが鳴った。

 モニターには、真っ黒に日焼けした朔也の弟、文也が立っている。

 盛り上がった三頭筋をむき出しにした黒いタンクトップ姿だ。

 白いクーラーボックスを両手で抱きしめるように抱えていた。


「ちょっと待って。今開けるねー」

 モニターのマイクからそう声をかけて、玄関へと向かった。

 文也は瞳子の顔を見るなり、真っ白い歯をむき出しにしてクーラーボックスを足元に置いた。

 おもむろに蓋を開けて見せる。

 敷き詰められた氷の上に30センチほどの魚が横たわっている。


「クロダイ釣って来た」


「わぁ、凄い! 釣りに行ったの?」


「そう」


 文也はフィッシングボートを所有していて、休みの日はこうして釣りに出かけては戦利品を届けてくれるのだ。


「上がって」


「うん、そのつもり」

 そう言ってニヒヒと笑う。

 再びクーラーボックスを軽々と持ち上げて、さっさと靴を脱ぎ「キッチン借りるよ」。

 まるで業者さんのような手際の良さだ。


「ありがとう」


 捌いて食べさせるまでが、文也の楽しみらしい。

 文也は2つ下の29才。気ままな独身だ。

 顔は朔也と瓜二つ。

 けど、性格は真逆と言っていい。


「兄貴は?」


「瞬と出かけたっきり、なかなか帰って来ないの」


「そっか」


 文也は壁掛けの時計に視線を遣った。


「6時前か。そろそろ帰って来るだろう」


「うん。そうね」


「どうしよっかなー」


 文也はキッチンで、まな板に乗せた立派なクロダイをしばし眺めている。


「どうしたの?」


「いや、捌いちゃうとただの食べ物になるじゃん。一匹丸々魚の状態を、瞬に見せたかったなーと思って」


「あー、そっか。喜ぶだろうね」

 そう言いながら、また魚ー! と悪態をつかないか、にわかに心配が押し寄せる。


「電話してみようか」


「ああ、そうしようか」


 テーブルに置いたスマホを手繰り寄せて、朔也の番号をタップする。

 数回のコールの後、繋がって、すぐに切れてしまった。


「ん?」


「どうした?」


「切れた。もう一回かけてみるね」


 直後、LINE通知が降って来た。


『晩飯、食べて帰る』


「え?」


「どうした?」


「晩御飯、食べて帰るみたい」


「は? 嘘だろう」


「ごめんね。せっかく持って来てくれたのに」


「いや、なんで瞳子さんが謝るの?」


「いや、だって……」


「まぁ、いいや。じゃあ二人で食べよう」


「そうしよう。ビール飲む? 今日、泊まって行くでしょ?」


「うん、泊まって行く」


 冷蔵庫を開け、週に一回のご褒美であるプレミアムモルツのタブを上げて、さかなの腹を掻っ捌いている文也に渡した。


 既に血濡れている手で缶を受け取ると「乾杯」と、瞳子の缶にぶつけて来た。

「乾杯」


 良く冷えたビールがグビグビと喉を通過する。

 丸一日海に出ていた文也は、瞳子の何倍も美味しいビールを味わっている事だろう。


「瞳子さん、何かあった?」


「え? どうして?」


「なんとなく、元気がないなと思って」


「そう?」


「うん。なんか今日は笑顔が輝いてないなって、思った」


 文也は、女性の顔色に敏感だ。

 いつもこうして瞳子を気遣ってくれる。

 女性にもモテるはずなのに、ちっとも浮いた話を聞かないのはなぜだろう?


「ちょっと疲れてるだけよ」


「そう? ならいいけど。あ、良くないか。座っててよ」


「いや、いいよ。そういうんじゃないから。あ! そうだツマ作るよ。確か大根あったはずだから」


「いいよ、俺やるよ」


「ふふ、そういう所だけは、兄弟そっくりだよね」


「そう?」


「うん。何かしている方が気が紛れるから、気にしないで」


「何? 気が紛れるって」


「なんでもない」


 美濃焼の皿に、ツマと刺身とチューブのわさびを盛りつけて、リビングのテーブルに運んだ。

 ソファにもたれて、床にペタンとお尻を付けて、だらっとお酒を飲むのが瞳子は好きだった。


 朔也は家では殆ど飲まない。

 ゆっくりお酒を飲むのは、もっぱら文也がこうして遊びに来た時だけの楽しみになっていた。


「じゃあ、いただきます」

「いただきます」


 二人で、クロダイに手を合わせて、一切れずつ口に運んだ。


「うーーん!! さすが旬だね」

「絶品と言っていいでしょう」

「身が甘いね」

「それは脂だね。脂が甘いんだよ」

「ぷりぷりしてるね」

「ツマもいい仕事するね」


 そう褒めちぎりながら食べては飲んで、いつの間にか夜はすっかり深まっていた。


 ガチャっと玄関が開き「ただいまー」と瞬の元気な声が聞こえた。


「ふみおじちゃーん!」


「おおー、帰って来たかー」


「よう」

 朔也は文也に向かって、気まずそうに軽く手を上げた。


「おう、おかえり」


「ランクル停まってたから、来てるなと思った」


「魚持ってきたけど、遅かったから俺たちで食べちゃったよ」


「ああ」


「どこ行って来た?」

 文也は瞬を膝に抱き、くすぐりながらそう訊いた。


「ご飯食べて来た」


「どこで? 何食べた?」


「びっくりドンキー!」


「ハンバーグか。美味しかったか?」


 その会話に、瞳子の笑顔が消えた。


「ちょっと朔也! 何考えてるの? ファミレスのハンバーグには、繋ぎで小麦が使われているのよ」


 朔也は文也の手前もあってか、強気な態度でこう言った。


「別にいいだろう。なんともなってないんだから」


「今は何ともなくてなくても、またお腹壊すかもしれないじゃない。私が毎日どれだけ食事に気を遣ってると思ってるの?」


「まぁまぁ、二人とも。子供の前だし、そういうの良くないよ」


 文也はたしなめるようにそう言った。


 ふっと、息を吐き、強制的に肺を緩める。


「たまにはパパと二人でご飯もいいよな」

 場の空気を和ませようと努める文也。


「二人じゃないよ。三人だよ」


「三人? 三人って、後一人、誰だよ?」

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