第5話 もう一人のママの事

 こんな時でも、眠気も食欲も襲ってくるのだから恐ろしい。

 ぐっすりと眠っていた。

 5時間ほどの仮眠から目を覚ますと、空腹が胃を刺激した。

 ベッドから降りてキッチンに向かう。


 ダイニングに向かうと、テーブルにラップのかかったエッグサンドが置いてあった。

 朔也が準備してくれたらしい。

 卵はゆで卵じゃなくて、たっぷりのケチャップがかかった目玉焼き。

 パンは、定期的にネットで取り寄せているグルテンフリーの米粉パン。

 煮詰まりかけているコーヒーをカップに注いで、椅子に腰かけた。


 家の中は恐ろしいほどに静まり返っていて、ふと瞬と夫はどこに行ったんだろうと思い始めると思考が止まらなくなった。

 これまで瞳子に向けられていた笑顔は今、他の誰かに向けられているのではないか?

 スラっとしたスタイルのいいアクティブな女性が浮かび上がる。

 髪はウェーブがかった栗色で、手入れの行き届いた馬の毛並みのように艶やか。

 太陽のように笑う素敵な女性。

 まるでハーフのような青く澄んだ瞳。

 瞳子よりも稼ぎがよくて、自立した素敵な女性。


 そんな人でなければ気が変になりそうだった。


 視界の先には、お気に入りの小さな庭。

 妊娠、結婚と同時に購入した格安の建売住宅。

 この小さな庭で、生まれて来る子供との時間をどんな風に過ごすんだろうなんて思いながら、妊娠期間を過ごしたっけ。


 おもちゃのブランコに滑り台。それにビニールプールを置いたらそれでいっぱいいっぱいになるほどの小さな庭。

 それでも、幸せな時間が、確かにここにはあったのだ。


 秘密をこっそりお友達に共有した瞬の得意げな顔。

 何か言いたそうな重々しい朔也の声。

 その先にあるものにはまだ霞がかかっていて不鮮明なのが有難い。

 もう一人のママとやらがどんな人物なのか、朔也とはどういう関係なのか、知る事さえなければ苦しむ事もない。

 真実を知るまでは、現実になる事はない。


 それなのに――。


「ただいま」

 朔也の控えめな声と同時に玄関が開いた。


 おかえりの言葉が出て来ない。


 姿を現した朔也は、シンプルなTシャツにベージュのチノパン姿。

 一人だった。

「起きてた?」

「瞬は?」


 少しきつい言い方になった。


 朔也は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出しグラスに注ぐと、喉を潤してこう言った。


「公園でとうま君と遊んでる。パパがサッカーを教えてくれてるんだ」


「置いて来たの?」


「すぐ戻るよ。財布を忘れて取りに来ただけだから」


「そう」


「あのさ」


「……」


「もう一人のママの事なんだけど」


「……」


 空っぽの胃がキリキリと痛みだす。


「瞬に、もう一人ママが出来たんだ」

 

 瞳子は、朔也の顔を見る事ができなかった。

 燦々と陽が降り注ぐ、小さな庭をずっと見ていた。


「そう。それで?」


「別に離婚とかを考えてるわけじゃなくて、瞬もよく懐いてて、それで、その……そういう事だから。それだけの事なんだ」


「そう」


(どうしてママなの? 恋人でも好きな人でもなく、どうして?)


「それで、週に1回か2回、彼女と一緒に過ごしたいんだけど、どうかな?」


「どうって? どうでもいいよ」


「うん、ごめん。瞳子が仕事じゃない日は、瞳子を優先するから」


 それだけ言うと、朔也は電子レンジの上に置きっぱなしだったらしい財布を取り、再び玄関を出て行った。


 じーんと頭が疼いた。

 ちゃんと呼吸をしているかどうかすら曖昧になった。

 体の底からふつふつと怒りにも似た悲しみが込み上げて眩暈をおぼえる。


(毎週、瞬が私以外の女の息子になる? 誰だかわからない女をママって呼ぶ?)


 急速に頭に血が上り、体が震えた。

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