第3話 小さな痛みが恋だと教えた瞬間

  残暑は和らぎ、少し冷たくなった夜風が、色づき始めた街路樹の葉を揺らしていた。

 そのざわめきが、どこか寂し気で泣きたいような気持になる。

 それが、季節の変わり目のせいだけではない事を本能で感じていた。


 19時30分。

 瞳子は仕事へと出かける。

 徒歩でおよそ15分先の産婦人科医院、未来レディースクリニック。

 看護師として、もう10年このクリニックにお世話になっている。

 結婚して瞬が生まれ、保育園に行き始めてからは、家事との両立のためシフトを夜勤にしてもらった。


 茜に遮られた『もう一人のママ』の話を、朔也はあれ以来口をつぐんだので、瞳子も無理に訊こうとはしなかった。

 気になりながらも、心が拒絶していた。

 出来る事なら聞かなかった事にして、このまま忘れ去りたい。


 栄養バランスや息子の将来の事を考えて並べた夕飯に

「ちぇーっ! また魚か」

 瞬は、悪態をつき、頬を膨らませた。

 その仕草も、抱きしめたいぐらい可愛い。

 愛おしくてたまらない。


「この時期しか食べられない高級なお魚よ。こんなにやせっぽっちな秋刀魚、一尾380円もするんだから! 秋刀魚さんに謝ってよね」


 瞳子はいつも通りを装った。それが母としての務めだと思っていたから。

 

「お肉もあるわよ。チキンのサラダよ」


 ガラスの器に、パプリカ、トマト、レタス、きゅうりを、彩よく盛りつけたチキンサラダをテーブルに運ぶと、瞬はたちまち機嫌を良くした。


「やったー! お肉だー!」


「野菜も食べてね」

 言いながら、トングで小皿に取り分ける。


 部屋着に着替えた朔也は、並べられた食事の前に腰掛けて、瞬の横顔を切なそうに見つめていた。

 

 そんな朔也から目を背けるようにして、瞳子は旬の食材をふんだんに使った料理を淡々と体内に収めた。

 自分の皿だけをさっと片付けて「行ってきます」と玄関へと向かう。


「いってらっしゃい」

 朔也の重苦しい声を背中で聞き流す。


「ママ―! いってらっしゃーーーい。お仕事頑張ってねー」

 いつからだろう?

 瞬が、仕事に出かける瞳子を追って、泣かなくなったのは。

 ママ行かないでーと泣きじゃくっていたのは、いつの事だっただろうか。


 朔也との付き合いは、もう丸6年になる。

 元々、同じ高校の同級生だった。

 当時は、なんとも思っていなかったただの同級生だった彼が、特別な存在になったのは、今から6年前。25才の年に行われた同窓会で再会してからの事だ。

 日々更新される最高気温が、その日も新たな記録を打ち出していた。


 エアコンの効いた、別世界のように涼しいホテルの宴会場。

 たまたま隣に座ったのが、記憶の片隅にいた同級生の美月朔也みつき さくや

 大広間に並べられた長テーブルに乗せられた料理も、対面に誰が座っていたのかさえも、もうあまり思い出せない。

 それなのに、隣に座った朔也から漂う独特な清潔感溢れる匂いは、未だ鮮明に覚えている。

 シンプルなブランドのロゴ入りのTシャツはしわ一つない。

 細く長い指は爪まできれいで。

 姿勢よく、正しくお箸を持つ姿は、育ちの良さを物語っていた。


(こんなに素敵な人だったっけ?)

 気が付くと、つい視線の先に彼を捉えていた。


 体形は細身だが、Tシャツからうっすら浮き上がる胸元は筋肉質。

 少し癖のある髪は、天然のイエローブラウン。

 その柔らかそうな髪質を、そっくりそのまま瞬が受け継いだ。


 愛嬌のある少し垂れた目尻も、笑う時片方だけ深くなる笑窪も、色素の薄い瞳も。

 瞬を見ていると、僅かだった彼との恋愛期間を思い出しては、幸せな気持ちになるのだった。


「おい、美月。お前、結婚するんだろう?」

 会場で、朔也に向けられた言葉が、瞳子に小さな痛みを与えた。

 無防備な粘膜を、ちりっと針先で突かれたような。


(結婚……。そっか、そうだよね。そういう年齢だよね)


「年上のすっげー美人な上司なんだろう?」

 同級生のゲスな物言いに、朔也は「いやぁ~」と曖昧に言葉を濁していた。


「美月君! 結婚するのー? おめでとう!」

 瞳子はお酒の勢いで、手を叩いて見せた。

 祝福の拍手のつもりだった。


 気まずそうに、照れたように俯きながら後頭部をポリポリと掻いて、コップに注がれたビールをあおった彼。

 25才にして大人の恋愛の、酸いも甘いも汚いも痛いも経験してきた瞳子には、その姿が眩しく映った。

 

 人並みに、まともに恋愛して来た人は、そろそろ結婚するんだな。

 そんな事を思って口に含んだビールは生ぬるい苦みを舌に残した。


 連絡先すら交換せずに、そのままさよならしたはずの彼と、次の日にはベッドの中にいた。

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