第2話 嘘だと言って!

 17時。

 夕飯の支度に取り掛かろうと、中途半端に肩にかかる髪をきゅっと結んだ。

 楽しみに観ていたドラマは、ちっとも内容が頭に入らなかった。


 冷蔵庫から、今朝買って来た痩せた秋刀魚とサラダ用のチキンを取り出す。

 何度目かのため息で、体はどうにか動き始めるが、瞬の言葉が脳内でリフレインして、妙な妄想を掻き立てては、手を止めた。


『もう一人ママができたんだ』


 今まで考えた事もなかった。

 完璧だったはずの瞳子の城に、不穏な影が覆いかぶさっているかのような感覚をおぼえる。


 そんなバカげた事、考えるのはやめようと思えば思うほど、不安は益々大きくなって行った。


 17時45分。

 いつも通りきっちりの時間にインターフォンが鳴った。


 子供部屋からバタバタと瞬と羽菜が出て来た。

「な~んだ、瞬君のパパか」

 羽菜は母親だと思ったらしく、あからさまにがっかりして見せる。


「お、羽菜ちゃんも来てたのか。ただいま」

 意に介さず、朔也は優しそうな笑顔を湛えて、羽菜の頭をポンポンと撫でた。


「パパ―、お帰りー」

 テンション高く、瞬が出迎える。


「ただいま、瞬」


 朔也は市役所勤めで残業とは無縁だ。

 いつもきっちりこの時間に帰って来る。


「羽菜ちゃんママ、また急な残業らしくて、もうすぐお迎えに来ると思うんだけど」

「そうか」

 ネクタイを緩めながらいつも通りの、誠実そうな笑みを湛えた。

 何か言いたげに、瞳子と朔也の顔を交互に見る羽菜。


「んー? どうした? 羽菜ちゃん」


 不思議そうに羽菜に問いかける朔也。


「なんでもなーい」

 きゃっきゃと奥の部屋に入って行く二人。


「ん? なんだあれ?」


 朔也は瞳子の顔を見て笑った。


「あー、なんか、ちょろっと聞こえたんだけど」


「ん?」


「いや、笑っちゃうんだけどさぁ、瞬がね、もう一人ママができたんだーなんて羽菜ちゃんに言ってたの」


「え?」


「可笑しいでしょ。もう一人のママだなんて。あの子、意味わかって言ってるのかしら。保育園から帰って来て子供部屋で二人で遊んでてね、おやつを持って行ったら、うっかり聞こえちゃって」


 朔也の造形の整った顔は、僅かに歪んだ。


「どうしたの?」


 何も言わずに俯いた。


 これまで見たこともないほど悲痛な面持ちに見える。

 その態度に、何度も押しのけた不安が押し寄せて来る。


「もしかして、本当だった? もう一人のママって」

 お願い。嘘だって言って。

 バカだなって笑って。


「瞳子。ごめん、ちゃんと話そうと思ってたんだ」

 ダイニングテーブルの脇で、重く項垂れる朔也。


 辛うじて保っていた笑顔が失せて、血の気が引いていく。


「ちゃんと話す? 何を?」

 震える声で、そう訊いた時。

 ピンポーンとインターフォンが鳴った。

 モニターには、羽菜の母親、あかねが映っている。


「おかえり」

 と玄関を開けると、ただいまより先に、茜は白いケーキの箱を掲げた。


「ごめんね。羽菜がお世話になりました。これ、グルテンフリーのチーズケーキ。食後にでも食べて」


「そんなに気遣わなくてもよかったのに。でも、ありがとう」


 茜はじーっと瞳子の顔を見つめている。


「どうしたの? 顔色悪いわよ」


「そう? ちょっと疲れたのかしら? なんでもないの」


 茜はそこそこ仲のいいママ友だ。

 これまで、お互いの悩みや愚痴を共有してきた。


 近い将来、どんな結末と共に、今日の事を彼女に話すのだろうか?

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