息子が一番の私と、夫が一番の彼女

神楽耶 夏輝

第一章

第1話 プロローグ

「もう一人ママができたんだ」


 その不穏な言葉が飛び出したのは、子供部屋でお友達と無邪気に遊ぶ5歳の息子の口からだった。

 瞬は5年前、瞳子とうこが命がけで産んだ、たった一人の大事な息子だ。


 お腹を壊しやすい瞬のために、我が家ではすっかり定番となっているグルテンフリーのカップケーキを、部屋に運んだ時の事だった。

 僅かに開いている子供部屋のドアの隙間から、そっと中を覗いた。

 今日はママ友であるあかねの娘、羽菜を夕刻まで預かるという約束だ。

 部屋いっぱいに散らかしたおもちゃの中心で、瞬は確かにそう言った。


 聞き役である羽菜は、恐らく瞳子と同じ表情をしているだろう。

 小首を傾げる小さな後ろ姿は、しばし戸惑っているかのように見える。

 カーテンの隙間から差し込む西日が、瞬の頬を赤く照らしていた。


「うちのママには絶対に内緒」


「どうして? どうして内緒なの?」


「だって、ママが怒るだろう?」


「どうして怒るの? もう一人ママができる事はイケナイ事なの?」


「イケナイわけないだろう」


「イケなくないのに、どうして瞬君のママは怒るの?」


「それはわかんないけどね。今度パパに聞いてみるよ」


 脳が理解する前に、体が反応する。

 プラスチック製のトレーの上で、琥珀色のカップケーキを乗せた真っ白い皿が、カタカタと音を鳴らした。


 私の気配に気づいたのか、瞬は慌てた様子で口を両手で覆った。


「入るわよー。カップケーキ作ったの。羽菜ちゃんも食べて」


 二人は無言で、まるで異物でも見るかのように瞳子を見つめた。


「おばさん、今の話、きこえた?」


 子供は残酷だ。

 この子、わかって聞いてる。

 この含んだ笑みは、瞳子を傷つける事だとわかっている顔だ。


「あら、何の話かしら? 二人で内緒の話? おばさんにも教えて」


「なんでもない、なんでもない! ママ、早く出て行ってよ」

 瞬が慌てて立ち上がり、瞳子のお腹を押した。


「はいはい。あんまり散らかさないでね。食べおわったらお皿はキッチンに」


「わかってるわかってるから、早く出て行けよ」


 強く押されて、瞳子は部屋の外に追い出された。

 バタンと音を立てて閉じたドアの前でしばし立ち尽くす。


 瞬のこういう態度は、今に始まった事ではない。

 自立の芽生えなのだ。

 悲観する事など何もない。

 むしろ喜ぶべき事なのだとキッズスクールの先生も言っていた。

 正常な成長の過程なのだ。


 それに、もう一人のママだなんて、子供の言う事だ。

 何かの勘違いや作り話の可能性の方が大きい。


 何しろ、夫は真面目で家族思い。


 不倫? 浮気? まさか。そんな事とは無縁のタイプだ。

 それに、夫に浮気する余地などない。

 市役所勤めの夫は、毎日きっちり5時45分には帰宅する。


 その後、夜勤に出かける瞳子と交代して、毎晩、土日祝祭日は、瞳子に代わって瞬の面倒を見てくれている。


 夫が、子連れで浮気?


 そんなバカな。


 不意にできた時間で、ドラマの続きでも観ようと瞳子はリビングに戻った。


 胸の奥に確かに生じた違和感から目を反らして、テレビのリモコンを操作した。

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