本一冊
紫鳥コウ
本一冊
夕陽が差し込んで、長い影が伸びている燃えんばかりの港町を通り過ぎると、樹木の隙間から紺の海が見える森林に入り、トンネルを抜けると、夜が忍びはじめた田園風景が広がり、すっかり暗くなるころにようやく駅に着いた。
ふたりの運転手は、夜風に
間もなくして、ひとりの女性が奥からやってくるのが、硝子越しに見えた。戸を開けるなり彼女は、僕の胸へと飛びこんできた。そして秋の夜空ではなく僕を見上げて、黙ってしまう。その切なそうな顔が愛おしくて、迷うことなく唇を重ねた。真っ暗な往来へと引っ張りだして、激しく求め合った。そうしているうちにも、今日一日のことが思い起こされそうになったが、必死に
町外れにある築二十三年のアパートの、眠るためだけにあるような狭い一室で、何年も暮らしていけるのは、女の子と遊んでばかりいるからだろう。ずっとこの部屋にいるわけではない。女の子の家に上がり込むことは何度もある。しかし、特定の誰かと付き合っているわけではない。複数の女の子と関係を持っている。
彼女が持たせてくれた弁当を食べてしまうと、すぐに眠気がやってきた。もうすぐ冬になる。この日本海側の雪国では、信じられないほどの雪が降る年もあれば、からっきし降らない年もある。今年は、どちらになるだろうか。
敷きっぱなしの布団の上で厚手の毛布にくるまり、今日もまた、ふたりの女の子と激しいキスをしたことを思いだす。そして、自分の歳や境遇のことを想う。いい歳をした大人が、仕事をしているとはいえ、こんなだらしない生活を送っていて、この先どうなってしまうのだろう。本社へと戻れる気配はない。もう
栄子とは結婚の約束をしていたわけでも、付き合っていたわけでもない。だけど、一生をともにする関係になるのは時間の問題だと、お互いに意識し合っていたはずだ。それなのに、離ればなれになって何年も経ってしまうと、そうした繋がりはあっけなく千切れてしまった。実家にいる両親は、僕を心配して
一冊だけ本を買おうと決めた。暇を潰すために。女の子はみんな予定があった。クリスマスだから。こういうときに限って、「真実の愛」などという言葉を口にしてしまうし、求めてしまう。勤務先の近くにある書店には、クリスマスにちなんだ小説を並べたスペースが作られていた。一目見ただけで、奥の方へと進んでいく。
レジの前を通り抜けようとしたとき、ひとりの女性が眼に飛びこんできた。書店名が記された紙のカバーを、文庫本にかけている。ならば今日買う本は、文庫本でなければならない。そして、一番右のレジを選ばなければならない。
この場合、文庫本なら、なにを手に取ってもいいのだ。というより、早くしなければ、レジに「休止中」の
芥川龍之介の『たね子の憂鬱』――物語はなんとなく覚えていた。知り合いの結婚式で、うまくナイフを使って洋食を食べることができるかどうかが心配で、憂鬱になってしまう女性を描いた短い小説だ。
物語を覚えているということは、芥川の晩年の作品がいくつも収録されている、この文庫本を、いままでに手に取ったことがあるということだろうか。一作を読み切るくらい立ち読みをするなんて、いままで一度もしたことはない。誰かにあげてしまったのかもしれない。分厚いとはいえないけれど、彼女はきっと、この本のことを気にかけている。
「この本を買うのは二度目なんですよ」
彼女がカバーをかけてくれているときに、そう声をかけてみた。しかし彼女は、ムリに微笑んだきりで、なにも言葉を返してくれなかった。見事にフラれてしまった。いや、フラれてしまうために、こんなことをしたのだと、いまなら分かる。そうしないと、ずっと片想いをしてしまうだろうから。
ちらちらと雪の降るなかを、駅の方へと歩いていった。もう今日は、仕事をする気になれない。この一冊を丁寧に読もう。あの寝るためだけの一室で。その前に、弁当屋さんのあの子とキスをして――いや、一直線に帰ろう。カバーはさっさと捨ててしまった。彼女とはオサラバしないといけないから。
「お願いします。結婚してください」
彼女がカバーをかけてくれているときに、そんなことを言ってみたら、結末は変わっていただろうか。いや、その場を騒然とさせるだけで、なんなら、どこか
大雪に大雪が重なるような冬になればいいのに。
〈了〉
【参考文献】
・芥川龍之介「たね子の憂鬱」『或阿呆の一生・侏儒の言葉』角川文庫、2018年改版、5-11頁。
本一冊 紫鳥コウ @Smilitary
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