Act7.「君に会いたい」

 わたしと凛子が起こした器物損壊事件は、平和な学校で学期中一番の事件となった。もっと大きな事件に巻き込まれていたわたし達にとっては、大したことではなかったけれど。


 驚くほど元通りの日常と、その中で浮き彫りになる非日常の余韻、自分の変化。

 七不思議が語り継がれているということは、体験者が生還しているということ。彼らもそれぞれの何かを抱えながら、こうして日常に戻っていったのだろうか?

 わたしはとても、元通りになんて戻れない。


 一日、一日、また一日。あの日が遠ざかっていく。鏡の中での出来事は、わたしにとっては思い出したくないトラウマではなく、大切な思い出になっていた。


 賽銭箱の奥からにゅっと出てきた、眠そうな目の少年。

 ハンバーガーを口いっぱいに頬張っている姿は、とても気持ち良くて、ずっと見ていたかった。

 自転車に二人乗りした時、掴んだ肩の熱。くすぐったそうに竦められた首。街が遠ざかって、世界中に二人だけになったみたいで、どこまででも行ける気がした。

 自動販売機の先、手を引かれて歩いた夕闇の校舎。怖かったけれど、彼がいれば大丈夫だと思えた。


 人を小馬鹿にした偉そうな顔で、訳の分からない事ばかり言って、わたしは散々翻弄された。でも意地悪かと思えばそんなことはなくて、優しくて、頼もしくて。すごく大人に見える時と、あどけない子供に見える時がある、不思議な少年。


 彼……マコトは、一体何者だったのだろう。

 鏡の世界で、悪魔は彼を“部外者”だと言っていた。わたしはそれを自分に都合良く、彼がこちらの世界の住人なのだと解釈したかった。けれどあの日以降、彼に会うことは一度も無かった。


 もしかしたら、あの場所に居るかもしれない。と、生前の祖母が通っていた神社に行ってみることもした。そこは確かに彼と出会った神社そのものだったけれど、マコトの姿を見つけることは出来なかった。神主はとうに還暦を超えており、中学生の息子など居ないという。神主の苗字も、マコトが名乗った文月ではなかった。


 マコトが何故嘘を吐いたのかは、分からない。でも、思い返せばあの世界に明確な顔を持った人物は、マコトしか居なかった気がする。まやかしの世界でわたしを混乱させないよう、居ない神主ではなく自分を頼るように、それっぽい嘘を吐いたのかもしれない。


 わたしはマコトが存在しないという事実を最初こそ受け止め切れず、殆ど毎日神社に足を運び、変わらない現実に打ちひしがれていた。わたしが忘れてしまえば、完全に無かったことになってしまうみたいで、毎日一生懸命にあの日の思い出をなぞった。何度も何度もなぞる度、どんどん彼の存在が大きくなり、それがわたしを更に苦しめた。


 泣いてしまう日もあったけれど、悲しみは時間の経過と共に、穏やかな寂しさへ変わっていく。それをわたしが求めていなくとも。



 ――季節は、巡る。


 煩かった蝉の声は聞こえなくなり、生い茂っていた緑は艶やかに色付き、冷たい風がそれらを吹き飛ばしてしまうと、裸になった木々の足元には霜が降りた。雪が降り、一部の生き物は眠りにつく。雪が溶け、生命が芽吹けば、目覚めの季節。


 現実逃避するように受験の波に飲まれていると、いつの間にか春になっていた。



 三月の末。満開の桜が空気まで染め上げている頃、わたしは三年間通った中学校を卒業した。高校は少し遠く、電車通学になる。新しい出会い、色々な出来事、たくさんの変化がわたしを待っているに違いない。


 それでも、変わらないものもある。わたしはきっとこれからも、鏡を見ては物思いに耽り続けるのだ。それこそ呪いのように。

 凛子はそんなわたしの様子を“恋煩いみたい”と言った。みたい、だったらマシだったかもしれない。



「……マコト君、わたし、高校生になるよ。君も同い年なら高校生だよね」

 わたしは神社の石段に座り空を仰ぎながら、姿の見えない相手に語り掛ける。彼が居ないと分かっていても、時間さえあればこの場所に来て、独り言を言うのが癖になっていた。返事がないことは寂しいけれど、自分の中にまだ彼が居ると確認できるだけでも、心が少しは楽になる。


 冷たい春風が、着納めのセーラー服の隙間から肌を撫でた。わたしは自分の肩をさする。……流石に、まだカーディガンは必要かな。今日はお参りだけして、もう帰ろう。


 長い石段を上ることに、体はすっかり慣れていた。けれど心はそうではない。一段一段上る度、妙にドキドキしてしまう。どうしても階段を上り終えた先に、待ち人が居ることを期待してしまうのだ。そして毎回、落胆する。


 何度繰り返しても諦めきれず、最後の一段を上る時はギュッと目を瞑る癖がついてしまった。今回もそう。水の中で目を開けるみたいに、恐る恐る拝殿の方を確認する。



 ――もう、心臓が、止まりそうだった。



 拝殿へと続く道に、ずっと探していた少年の姿があったのだから。


 ぼうっと桜を眺めている少年は、学生服ではなくラフな私服を身に纏っている。大きなロゴ入りのプルオーバーはブカブカで、あの日の彼より幼く見えた。だがそのどこか神秘的な印象の横顔を、わたしが見間違う筈もない。


 わたしは縺れる足でなんとか彼に駆け寄り、名前を呼んだ。


「マコトくん!」


 ……少年の反応は、想像と違っていた。マコトのことだから再会の感動に涙するようなことは無いだろう。けれど、それでも少しくらいは、嬉しそうに迎えてくれるものだと思い込んでいた。


 しかし目の前の少年は目を丸くして息を呑み、危ない人にでも会ったみたいに、警戒心を露わにする。


「だ、誰ですか?」

 わたしは、頭を思い切り殴られたような衝撃を覚えた。


「わたしだよ……“マリー”! マコトくんが助けてくれた、」

「……僕はマコトじゃないですよ」

「え? 嘘、なんの冗談?」


 また、わたしを揶揄っているのかもしれない。それにしても性質の悪い冗談だ。けれど乾いた笑いを零すわたしに対し、目の前の少年はいつまでも素っ気ない他人の顔をしている。


 ……わたしは、理解しなければならなかった。

 目の前の少年は確かにマコトと瓜二つだけれど、声も、喋り方も、表情も挙動も、あちこちがマコトとは違っている。この少年はどんなに似ていても、彼自身ではないのだ。


 わたしは目の前の少年に、理不尽な怒りが湧いてきた。まるで彼がマコトを奪っていったみたいに、感じてしまった。


 涙ぐみながら立ち尽くすわたしに、少年は何かを察したように「ああ」と声を上げて「なるほど」と手を叩いた。不審者ではなく、ただの人違いだと気付いたらしい。

 そしてようやく警戒を解き、人当たりのいい柔和な笑みを浮かべる。わたしはあまりにマコトとかけ離れたその笑みに、また傷付けられた。



 ――朗らかな雰囲気の少年は、このあたりに住んでいるらしい。暫く病気で入院していたそうだが、無事に手術が終わり、四月から学校生活に復帰できるのだという。ここの神社にはよく手術成功の願掛けに来ていて、今日はお礼参りに来たとのことだ。


 彼は何の因果かわたしと同い年で、この春から同じ学校に入学するらしい。わたしはマコトに酷似した顔の別人を見続ける三年間に、絶望的な気持ちになる。彼の名前を知る気も、自分の名前を教える気力もなかった。


「ねえ、君は霊的なものを信じる?」

「え? ……まあ、うん」

 唐突なオカルト話にわたしは戸惑いつつ、頷いた。あんな体験をした後で信じるも信じないもない。少年は何故か安心したように微笑む。


「それは良かった。僕はね、昔から色々なモノが見えてしまう体質なんだ。憑かれやすいみたいで、小さい頃はよく悪いモノに追いかけられて、大変だったんだよね」

「はあ」

 抜け殻状態のわたしは、溜息みたいな相槌しか打てなかった。何故この少年はこんな話をするのだろう? 適当にあしらっても良かった。でも、そっくりなその顔がそうはさせてくれない。


「それでさ。僕が困っている時はね、ここの神様がいつも身代わりになって、助けてくれたんだよ」

「へえ」

「本当にすごく頼りになるけど……悪戯好きなのが、玉に瑕なんだよなあ」

「ほお」

 まるでマコトみたいな神様だな、と少しだけ興味が湧いた。


「神様はよく、無断で僕の姿を借りて、外に遊びに出かけたりするんだ」

「ふうん」

 ……と聞き流しかけて、わたしの意識は一気に覚醒する。


 この少年は、何を言おうとしている?

 脈絡のない会話は、わたしを一つの解に導こうとしている気がしてならない。


 わたしは願い乞うように、少年を見た。


「僕の名前は文月フヅキ 真人マサト。僕の真似をした神様はね、真人から人を取ってマコトって名乗るんだ。自分は人ではないから、ってね。……マコトは、君に迷惑をかけたりしてないかな?」


 僕の姿で、困ったやつだよ……と続けるマサトの横を通り過ぎ、わたしは拝殿へと走った。


 マコトはもう、この世界のどこにも居なくて、二度と会えないのかもしれないと思っていた。

 でも本当はそうではなくて。わたしが気付けなかっただけで、彼はずっと近くに居たのかもしれない。


 わたしは賽銭箱の後ろに回り、いつも通り閉ざされている御扉に手をかける。開かないという可能性は考えなかった。きっと今ならここは開くと、そう思った。厳かな雰囲気の木の扉はすんなり、わたしを受け入れる。


 薄暗い拝殿内に、春の淡い光が舞い込んだ。中は外から見えていたよりも広く、奥行きがある。最奥には大きな神棚があり、その上段には丸い鏡が祀られていた。そういえばこの神社のご神体は鏡だと、入口の案内板に書かれていたのを思い出す。


 不敬な行動なのは百も承知だ。今後、出入り禁止にされるかもしれない。……なんて、本当は思っていない。ここの神様は絶対、そんなことでは怒らないから。


「マコトくん」


 その名を呼ぶと、ぼんやりとした曖昧な輪郭が現れる。最初は幽かで不確かだったそれは、わたしの信じる気持ちが形となるように、次第に明確な姿となっていった。


 わたしにとってはマコト自身の、実際にはマサトの偽物であるマコトの姿が、現れる。


 わたしは懐かしい彼の姿に、泣こうか笑おうか悩んで……顰め面で詰め寄った。


「ずっとここに居たの? わたしのこと、黙って見てたの?」

「あ~……見てた。いやー……俺、愛されてるな?」


 軽口を叩くマコト。けれどその顔に強気なところはない。眉は下がり、目は泳いでいた。見るからに困りきっている。いい気味だ。いや、まだ足りない。わたしはもっと困らせてやらなければならないと思った。

 いつも彼の姿を探して、時には泣いていたわたしに対し、彼はただ黙って高みの見物を決め込んでいたのだから!


 恥ずかしさやら怒りやら悲しみやら、怒涛のような感情に全身が沸騰する。


「声くらい、かけてくれればよかったのに!」

「あまり気軽に、人間と接する訳にいかないんだよ、普通は」

 マコトの言葉は尤もらしく聞こえるが、ただの言い訳にも聞こえる。彼には彼にしか分からない、人間では思いもよらない事情や葛藤があったのかもしれない。


「だとしても、やっぱり酷いよ……無事だってことくらい、教えてくれてもいいじゃん! この人でなし!」

 うずくまって泣き喚くわたしに、マコトは「悪かったよ」と情けない声を出す。それから、深く溜息を吐いた。


 ……彼はもしかして、わたしになど会いたくなかったのだろうか? だとしたら大層な勘違い迷惑女だ、わたしは。

 

 ポン、と頭に置かれた手。顔を上げると……どこか嬉しそうな困り顔。


「ああ……ほんとに、仕方ないな」

 マコトは膝を折り、わたしの涙を拭う。


「仕方ないって、なに……わたしに会いたくなかったってこと?」

「俺とお前が一緒に居るのは、そう簡単なことじゃないんだ」

「わたしは、よく分からないけど……マコトくんが何であっても気にしないよ」

「……気にするのは、こっちなんだよ」


 人間は、あっという間だから。と悲しい声がする。

 わたしにはやっぱり彼の真意が分からず、首を傾げた。本当は分かりかけていたけれど、今は見ないふりをしたかった。


「まあ……とはいえ、見つかっちゃったら、仕方ないよな」 

 マコトは噛みしめるように「そうさ、仕方ない」と言って、わたしの目を真っ直ぐに見た。


 痺れるくらい真剣な眼差しが「もう逃げも隠れもしない」とわたしに誓いを立てる。

 

 それから彼は、初めてわたしの本当の名前を口にすると、恥ずかしそうにニヤけながら手を差し出した。



「改めて、よろしく。人でなしです」






【鏡の国のマリー】 完

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