Act6.「七不思議の真相」

 わたしの中学校で語られていた、七不思議の一つ。

 4時44分44秒に家庭科準備室の姿見で合わせ鏡をすると、未来の自分が見える。運命の相手が見える。鏡に吸い込まれる。悪魔が現れる。呪われる……エトセトラ。


 わたしはあの日、友人と共に合わせ鏡の七不思議に挑戦し――鏡に話しかけられた。


『君達は、何が見たいんだい? 見たいものを見せてあげよう』


 乗り気だった友人だが、実際に怪奇現象が起こると別の話らしく、青い顔で硬直し何も言えない様子だった。わたしは散々クールぶっていた手前、そんなに素直にはなれない。少しでも友人にイイカッコを見せたくて、変な方向に気を奮い立たせ、鏡に応える。


『なんでもいいの? だったらわたしは、大人になった自分が見たい』と。


 ……わたしは、早く大人になりたかった。大人に子供扱いされる度、子供に仲間扱いされる度、苛立ちを覚えていた。


 もう自分で色々と判断できるというのに、親も教師もわたしの意見を、同じ人間の意見としてまともに取り合わない。それでいて、些細な事で過干渉してくる。大人の庇護下に押し込められていることに、一人の人間としての尊厳を持てないことに、鬱屈した日々を送っていた。


 それが思春期特有の心の機微だと言われることにも、嫌気がさしていた。


『もう子供じゃないのに』と言う言葉を、何度飲み込んだことか。それは大人達にとって『まだ子供です』という宣言に他ならない。


 わたしは、早く大人になりたかった。

 格好良くてちゃんとした、一人で颯爽と生きていける大人の女に。


 けれど時間の進みは、あまりに遅い。待ちきれない。

 だから、いつかそうなれるという確証だけでも得られれば、少しは日々を穏やかに生きていけるかもしれない……そう思ったのだ。


『いいだろう。君が見たいものを、見せてあげよう』

 鏡の奥から響く返事。


 そして鏡は、わたしがなりたい姿を与え、それと引き換えに“わたし自身”を奪ったのだ。




 ――あの日のことをすっかり思い出すと、頭の中で霞んでいた部分が、綺麗に晴れ渡る。事件当時のことをあまり覚えていなかったのは、本当はまだ、あの日から時間なんて経っていないから。まだ事件の最中に居るから。


 マリーではないわたしは、ゆっくり目を開ける。


 ……鏡の中は大きく揺れていた。その中心に居るわたしの姿が、揺らぎ、渦を巻く。

 静かにそれを見守っていると、渦は徐々に一つの現実に収束した。そこには、嫌という程に見飽きた化粧っ気の無い子供。野暮ったい印象で、どことなく、まあ少しは、愛嬌があるように見える少女。

 それがわたしの本当の姿だった。友人と鏡合わせをした、あの夜のままの中学生がそこに立っている。


 思い出した名前が、真の姿が、内側から弾けて溢れた。凍っていた血液が溶けて、指先までカッと熱くなった。わたしが、息を吹き返す。


 マリーではない本当の名前。洗練された大人の女ではない、芋っぽい少女。わたしはわたしを、取り戻した。


 鏡の中の恐ろしい幽霊もまた、姿を変えている。そこに居るのは可哀想になるくらい泣き腫らした目の、つい先程まで一緒に居た友人……凛子の姿。


 涙でぐしゃぐしゃの凛子の顔は、ようやくわたしに声が届いたことを察して、更にくしゃっとなった。


 わたし達はどちらからともなく、鏡越しに触れ合う。触れ合った部分から感じる温もりは、彼女が確かに生きていることの証だ。事の真相は思ったより取り返しのつくものだった。……わたしも、生きてる、よね?


 合わせ鏡の七不思議。鏡に吸い込まれたのは凛子ではなく、わたしの方だったのだ。十数年経っていたというのも思い込みで、会社も街もこの世界の全てがまやかしで、今はまだ中学生のあの夜の延長線上。


 凛子は鏡に吸い込まれたわたしを助け出そうと、逃げもせず呼びかけ続けてくれていたという。


「彼女の呼び掛けがなければ、あんたはとっくに我を失って、鏡の世界に囚われていただろうさ。感謝するんだな」


 マコトは姿の変わったわたしに、全く驚いていない。彼の普段通りの視線にさらされ、わたしは恥ずかしくて堪らなくなった。

 彼はわたしの正体に気付いていたのだろうか? ずっと、大人ぶっているただの子供に見えていたのだろうか?


「わたしがマリーじゃないって、子供だって、気付いてたの?」

「まあな。……でも、意地悪で教えなかったんじゃない。呪いから解放されるには、自分で気付く必要があった」

「呪い? この世界は、一体何なの?」

「鏡の中にある、鏡の悪魔の世界さ。あんたは悪魔に何かを求めなかったか?  悪魔は取引の対価にあんたの魂を奪おうとした。自分の世界に取り込もうとしていたんだ」


 悪魔、取引。わたしには、彼の言うそれらが何を指しているのかすぐに分かった。鏡の悪魔はあの日、合わせ鏡の中から話しかけてきた存在で、この世界で自分を誑かしたSだ。

『見たいものを見せてあげよう』というあれが、取引だったに違いない。見合わない対価、まさに悪魔との契約だ。


「間に合ってよかったな。あんたが完全にマリーになってしまえば、もう二度と元の世界には戻れなかった筈だ」

「マコトくんは、どうしてそんなことを知ってるの? なんでわたしを助けてくれたの?」

「まあ、ちょい落ち着け」

 文字通り前のめりになるわたしを、マコトはどうどう、と宥める。凛子はわたしの様子に目を丸くしていた。


 この少年は一体、何者なのだろう? ここが悪魔の世界だというなら、そこに住まうマコトが自分の味方をする理由が分からない。彼にもわたしみたいに本当の姿があるのだろうか? 彼もわたしと同じく、生きている存在?

 

 突然マコトの存在が危ういものに思えて、わたしは不安になった。彼がまやかしの一つではないと、確かにここに存在していて、これからも手の届く存在なのだと、その確証が欲しかった。


 いつまでも答える様子のない八の字眉のマコトに、わたしは更に詰め寄る。――けれど、その答えを彼から聞くことは叶わなかった。


 瞬間、背筋を悪寒が駆け上る。産毛を刃物が掠めていったみたいな、嫌な感覚。何か悪いものが急速に近付いて来ている。


 ハッと廊下の方を見ると、天井と壁の間にある小窓の向こうが、ざわめく黒いもので埋め尽くされていた。それは毛深い巨大な獣の背。わたしはマコトと初めて会った時に、彼が自分の肩から払ってくれた奇妙な毛のようなもの思い出した。そして女子トイレで、自分の首を絞めた毛むくじゃらの手を思い出した。


 みしみし、と教室全体が軋む。


「追いかけて来たか」

「えっ、もしかしてあれ、S先輩?」

 Sなどという人物はおらず、その正体が“悪魔”だということは分かっている。けれどついそう呼んでしまった。壁一枚を隔てた向こうに居る巨大な影は、おどろおどろしい化物でしかないのに。

 なのに、そこから聞こえる声は、変わらず。


「マリーちゃん、騙されちゃ駄目だよ。その二人は君を連れ去ろうとしている悪魔なんだ」

「どの口がそれを言うんだ?」

 マコトが鼻で嗤う。


 ガタガタと大きな地震みたいに、部屋全体が揺れて、隣の家庭科室からガラスの割れる音がした。大きな体が扉を壊したのだろう。床を這う、ズルズル引きずる音が、こちらに向かって来ているのが分かった。


 そして、開け放ったままの家庭科準備室のドアの向こうに――悪魔が顔を覗かせる。


 それは、この世で最も恐ろしい災いが形を成したような、禍々しい闇。黒い巨体が細長く伸びて、縮んで、Sとはまた違う見目の良い男に変わる。


「……あんた、ほんとに面食いなんだな」

「えっ」

 マコトの呆れたようなジトッとした目に、わたしは焦った。

 ……そうか。この世界がわたしに都合の良いように見えているのなら、悪魔の外見もまた、そういうことになるのだろう。わたしは不埒な妄想を覗かれている気分で、意味もなく顔を手で覆った。


「マリーちゃん、こっちにおいで、さあ」


 ……悪魔は何度か甘い言葉を囁いた。しかしもう、わたしには届かない。無視するわたしに怒りを募らせたのか、悪魔は突然、落雷のような叫びを上げた。


 ボリューム調整機能が壊れたスピーカーみたいに、大きく、小さく、太く、細く。言葉にならない言葉を咆哮する。その顔が好青年のままであるというミスマッチさが、彼が人間ではない歪な存在なのだと物語っていた。


 人の皮を被った悪魔が、理性の無い獣の如くわたしの方に向かってくる。が、何故かその体は透明な壁にでもぶつかったみたいに跳ね返る。――先程の理科室と、同じだ。


 悪魔は壁を避けようと向きを変え、またぶつかり、また向きを変える。同じ場所をぐるぐる回り続けるその様子は、檻の中でもがく動物みたいだ。見ているだけで気が滅入る。

 またマコトが何かしたのだろう……と彼を見ると、案の定、マコトは得意満面だ。


「ほら、今の内だ。俺がその鏡と向こうを繋げるから、元の世界に戻れ」

「流石マコトくん! ……マコトくんも、一緒に行くんだよね?」

「俺は、」


 壁と壁の隙間を見つけたのか、すり抜けて来たSがマコトの背後から襲い掛かる。マコトは一本背負いの要領でその体を引き倒すと、羽交い絞めにした。


「ほら、さっさと行け」

 マコトはやはり、答えて欲しい肝心の問いには答えない。わたしは、こんな所にマコトを置いていくことなど出来ない、と首を横に振る。駄々をこねる子供みたいなわたしに、達観したあの笑みが向けられた。


「心配ない。大丈夫だから」


 ……確かに、マコトがこんな悪魔なんかに負けるとは思えない。心配することは、疑うことだ。それは彼に対する不義に思えた。


「分かった。……マコトくんは、大丈夫。絶対!」

 わたしは謎の宣言を残し、鏡に向き直ると、こちらに向けて伸ばされている凛子の手を――取った。自分と変わらない、小さく柔らかな手。少し湿った少女の手に引っ張られ、わたしは二つの世界の境界を超える。


 夕方の家庭科準備室から、夜の家庭科準備室へ。空気が一気に変わった。呆然とするわたしに、凛子が飛びつき「良かった! 良かった!」と熱い涙をこすり付けてくる。わたしもつられて涙を滲ませるが、それでもまだ、夢の続きに居る気分だった。本当に戻って来れたのだろうか……?


(あっ、マコトくんは!?)


 彼はどうなったのか。

 振り返ると、鏡にはまだ赤い世界が映っており、そこには悪魔を押さえ付けたままのマコトが居た。


 わたしは凛子の腕を振りほどき、わたし達を隔てる壁に駆け寄って、彼の名を呼ぶ。凛子の声はあちらに届いていたけれど、わたしの声は届くだろうか? 一抹の不安は、マコトがちゃんと反応を示した事ですぐに消える。


 良かった。彼と目が合った。わたしはその事に、元の世界に戻って来たことと同じくらい……それ以上に安堵した。なんとかして彼も、こちらに連れて来ないと!


「いいか、よく聞け」

「え、なに?」

「そっちにある二枚の合わせ鏡が、この悪魔の依り代になっている。俺がこいつを抑えている間に、それを割るんだ。そうすればもう、悪魔はお前達の世界に介入できない」

「……でも、そんなことをしたら、」


 マコトくんはどうなるの? と口にすることは躊躇われた。また誤魔化すように笑われたら、どうすればいい?


 マコトの指示に戸惑い、動けずにいるわたしの後ろで、凛子が不思議そうにわたしを呼んだ。


「さっきから気になってたんだけど、誰と話してるの?」

 どうやら凛子には、鏡の向こうのマコトや悪魔の姿は見えていないらしい。道理で話に入ってこなかった訳だ。……わたしがずっと独り言を言っているように見えていたのだろう。


「えっと……わたしを助けてくれた人。鏡を割れば、もう悪魔は出てこれないだろうって」

「悪魔!?」

 凛子は素っ頓狂な声を上げる。が、すぐにギュッと険しい顔をして、近くにあった椅子を手に取ると豪快に振り上げた。わたしは凛子の行動力に驚き、彼女から鏡を庇うように腕を広げる。


「ちょっと、待って!」

「なんで!? 壊さないといけないんでしょ! また居なくなっちゃったら嫌だよ!」

「でも、」


 わたしは肩越しに鏡を見る。鏡を割って二つの世界が遮断されれば、マコトとの繋がりも断たれてしまうのではないだろうか。マコトのことだ、恐らくわたしのその考えも全てお見通しだろう。なのに彼は素知らぬ顔で「早くしろ」と促すだけだ。


「俺、いつまでもこんなヤツ、抱きしめていたくないんだけど」なんて、いつも通りの調子で冗談を言う。


 これまでマコトの言葉を信じ、従ってきたわたしだけれど、今回ばかりはそういう訳にはいかなかった。


「鏡を割っても、マコトくんは無事なんだよね?」

 目に涙が溜まり、声が震える。わたしの必死の問いかけに、マコトは一瞬だけ表情を失くして、それから……わたしが初めて見る顔をした。子供でも、大人でもない。もっと本当の彼だと思える顔。


「ああ、大丈夫」


 マコトのそれは、単なる言語以上の意味を持つ、言霊のように感じられた。彼の言葉には不思議な力がある。彼の言葉を信じることで、きっとそれは真実になる。

 わたしはなんとか笑顔を作って「分かった」と浅く頷いた。深く頷くと涙が零れてしまいそうだった。


 わたしも、近くの椅子を手に取る。そして置いてけぼりになっている凛子に「凛子は後ろの鏡をお願い。わたしはこっちをやるから」と指示した。強い口調を心がけていないと、決意がぶれてしまいそうだった。


 わたし達は背中合わせになり、「せーの」とタイミングを合わせ、椅子を振りかぶる。――そして勢いよく、赤い世界に叩きつけた。


 鏡が割れるその音は、甲高い悲鳴にも聞こえる。事実、それは悪魔の悲鳴だったのかもしれない。割れる瞬間、鏡の向こうが眩い光で満ちた。その光は太陽に似た、邪な気を浄化する神々しいものだった。


 光は鏡の破片と共に散らばり、霧散する。床の上でバラバラになっているそれには、もうこの世界とわたしたちの姿が映るばかりだ。


 こうして二つの世界の繋がりは、完全に断たれた。


 わたしは壁掛け時計を見る。時刻は夜の9時前。こちらの世界では、七不思議の実践からまだ一時間も経っていないらしい。

 悪夢の中で十数年を過ごしていたわたしは、過去にタイムスリップした気分になる。


 悪夢からの目覚め。戻った平穏。それを手放しで喜べないのは、悪夢が恐ろしいばかりでは無かったからだ。

 砕け散る寸前の世界、光の中に立つマコトの顔は、眩しすぎて見えなかった。


 それでもきっと、絶対、彼は無事だろう。そうでなくてはいけないのだから。


 感傷に浸るわたし。「えっと」と凛子が声を掛け辛そうにしているが、気を遣える余裕はない。

 が、静かな時間はそう続かなかった。鏡の割れる音で駆け付けた教師に見つかってしまい、その日も翌日も翌々日も、わたし達はこってり絞られるのだった。




 *




 依り代となる鏡が割られ、獲物と狩場を失った悪魔は、元の悍ましい姿を取り戻しマコトから逃れる。マコトはもう捕えておく気はないようで、やれやれと肩を竦めた。


「お前は何者だ。どこから我が世界に入り込んだ。何故、邪魔をした」

 悪魔に責められ、マコトは「ふむ」と腕を組む。

 

 確かに、この悪魔は悪魔らしい振る舞いをしていただけだ。愚かな人間と契約を結び魂を奪う。それは悪魔の生きる営みの一つであり、“人間でも悪魔でもない存在”が介入すべきことではない。しかし、だ。


「あの子の婆さんには、大分世話になったんでね。生憎、俺は義理に厚いんだ」


 それにしても、いつの間にあんなに大きくなったんだ? とブツブツ続けるマコト。


 悪魔はマコトのその態度に、馬鹿にされたと癇癪を起こし、唸り、吠え、暴れる。

「あんまり頭が良くなさそうだな」とマコトは冷ややかに見据えた。


「食ってやる、食ってやる、お前もどうせここから出られない! 死ぬまで追いかけて食ってやる!」

「おいおい。お前みたいな下等な悪魔と、一緒にするなよ?」


 マコトは憐れな悪魔に、ニヤリと三日月を描く。



「鏡の世界は、俺の土俵だ」

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