Act4.「真夜中エスケープ」
(えっ……先輩!?)
ファーストフード店を出ると、店先には何故かSが待ち構えていた。何も言わず走り去ってしまったわたしは、気まずさでいっぱいになる。店内に戻りたかったが、もう遅い。Sはその長い脚で、あっという間にわたしの前にやって来た。
「マリーちゃん、さっきはどうしたの? 心配したよ」
「……えっと、」
この人は、わたしのことを追って来たのだろうか? どうしてここに居ると分かったのだろう?
好きな人が自分を心配してくれているというのに、ちっとも嬉しい気持ちが湧き上がらない。それどころかわたしは、彼に不信感を抱いていた。じわりと嫌な汗が額に滲む。黙って俯くわたしの前に――温かな壁が出現した。
顔を上げると、そこには真っ白なシャツ。マコトがSの前に立ちはだかっている。Sは今の今までマコトの存在が視界に入っていなかったみたいに「おや」と目を丸くした。
「君は誰だい? マリーちゃんの弟くんかな?」
「お前こそ誰だよ」
「僕かい? 僕のことはマリーちゃんがよく知っている筈だよ。ねえ、マリーちゃん」
……どうしてこの男のことを、爽やかな好青年などと認識できていたのか。Sの視線や言葉は、冷たくぬめる蛇のように気味が悪かった。数刻前まで彼に憧れていた自分が信じられない。理由は分からないが、夢から覚めてしまったみたいだ。夢から醒めて、悪夢を見ている。
とはいえ、職場の先輩相手にこれ以上失礼なことをしてはいけない……わたしは社会人の心得を思い出し、外行きの笑みを作った。
「マコト君、この人はわたしの職場の先輩だよ」
わたしがSのことを紹介すると、マコトはぎゅっと眉間にしわを寄せる。おまけにチッと舌打ちまで飛ばしてくる。何がそんなに気に食わないのだろう?
そんなマコトとは反対に、Sは満面の笑みだ。
「そうさ。だから、ここからは先輩である僕が、マリーちゃんを引き受けよう。君はどうやら、弟という訳でも無さそうだしね」
Sがマコトの後ろに回りこみ、わたしの肩に手を伸ばす。しかしその手がわたしに届くことは無かった。わたしがマコトに思いきり腕を引かれ、遠ざけられたからだ。
あらぬ方向に強い力で引っ張られた所為で、肩が痛い。抗議しようとマコトを睨むが、その横顔のあまりの気迫に何も言えなくなってしまう。常に眠たそうなその目は見開かれ、眼光鋭くSを睨んでいた。燃えるようでもあり、凍てつくようでもあるその視線に、それを向けられていないわたしもゾッとする。Sも完全に表情を失くし、息を呑んでいた。
「おい、行くぞ」
「えっ?」
マコトは戸惑うわたしの手を引いて、ガードレールに立てかけてあった自転車に近付くと……勝手にサドルに跨る。
(な、なに、なにしてるのこの子)
突拍子のない少年に、さっぱり付いていけないわたし。けれど強い口調で「早く乗れ」と言われ、反射的に荷台に乗ってしまった。
Sは何かを言いかけ、手を伸ばしかけ……全部、間に合わない。わたし達を乗せた自転車は、既に夜の街に走り出している。恐る恐る振り返った先のSは、わたしの知らない怖い顔をしていた。
……嫌われたかもしれない。けれど、それならそれでいい。
自転車を盗んだこととか、ノーヘルメットの二人乗りだとか、相手が中学生だとか、今のわたしには社会的に問題があり過ぎる。警察に捕まれば、責任を追及されるのは未成年の彼ではなくわたしだろう――なんて頭の片隅で考えはいるものの、実のところ、そこまで気にしていなかった。
(気持ちいい……)
汗ばんだ首筋を撫でる風。目の前で小さく揺れる背中。振り落とされないようマコトの肩に手を置くと、思ったより熱かった。
ヘッドライトの流星群。街の喧騒が流れていく。どこまで行くんだろう。どこまででも、行ける気がした。
マコトは肩の手がくすぐったいのか、少し首をぶるっと振る。
「……先輩、追ってきてないみたい。良かった」
「アイツのことは考えない方がいい」
「どうして?」
「どうしても」
彼のボサボサ……に見えてフワフワの後頭部は、わたしにその真意を探らせない。それでも今は、Sよりマコトの言葉を大切にしたいと思った。「分かった」とわたしは頷く。勢いが付き過ぎて、その背中に頭突きしてしまった。
「いってーな」
「ごめん。ねえ、どこに向かってるの?」
「さっき言っただろ、あんたの中学に行くって」
「えっ! もしかして今から行くつもり?」
「善は急げだ」
「っていうかマコトくん、わたしの中学がどこにあるか知ってるの?」
わたしはまだ、マコトに母校の場所を教えていない。けれど、場所を知らない筈の彼は、迷いなく自転車をこぎ進めている。その様子はとても当てが無いようには見えなかったが……当てずっぽうであるらしい。「知らん!」と偉そうに胸を張った。
わたしはガクッと項垂れそうになる。この少年なら知らなくても辿りつけそうな、不思議な何かを感じるけれど。でも。
「残念だけど、遠いから自転車じゃいけないよ」
わたしが通っていた中学校は実家の近く。ここから電車と徒歩で合わせて二時間弱はかかる。もう終電までに辿り着くのも不可能だ。
「とりあえず明日に、」
「どんな学校だった?」
「どんなって……」
“どこ”ではなく“どんな”? 彼の質問の意図が分からず、少し言葉に詰まってしまう。どんなって――と思い出すと、十年以上も前のその記憶はやけに鮮明に蘇った。
「……どこにでもある、普通の学校だったよ。校舎は三階建てで、校門は表と、駐車場に面した裏の二つ。門を入ってすぐのところに桜の木があって、毎年春にはそこで写真を撮るの。なんか一本だけヤシの木みたいなのが生えてて、浮いてるんだ。校庭は凄く広くて、その奥にあるプールまで行くのが大変で……」
「学校の周りは?」
「周り……門を出たところは、並木道だったよ」
「並木道には何があった?」
「ええと……埃っぽい駄菓子屋さんと、やってるかよく分からない釣具ばかりの雑貨屋さん。当たりくじ付きの自販機と……あとは古い大きな家が建ってて、いつもフェンスの向こうから真っ白な犬の鼻先が突き出してるの。……でも、なんで?」
「さあ、なんででしょう?」
まるで謎かけみたいなマコトの口ぶり。わたしは彼に見える筈もないのに、首を傾げる。そして、頭を傾けたことで彼の前に広がる景色が目に入り「あれ?」と声を上げた。そこは……今まで居た街とは様子が違っている。
――街灯の少ない、薄暗い道。左右には青々と茂る木々が連なっていた。夏の豊かな香り。木の甘い匂いが、カブトムシを想起させる。……いつの間にかわたし達を乗せた自転車は、見覚えのある並木道を走っていた。
自転車は骨董品のような駄菓子屋を通り過ぎ、釣り竿が突き出す雑貨屋を通り過ぎ……ヒクヒク動く犬の鼻先を通り過ぎた。
キキッ、と突然自転車が止まり「ムグッ」とわたしはマコトの背に埋まる。潰された鼻をさすりながら、もう! と不満を訴えた。
「突然止まらないでよっ」
「着いた」
「どこに……」
わたしは目を疑った。いや、本当は先程から、そんな気がしていた。
目の前にあるのは懐かしい――わたしの、中学校。
「なんで?」
わたしは夢でも見ているのかと、よく漫画やアニメでやるように目をこすった。アイシャドウとマスカラの感触。また、やらかしてしまった。何故かわたしは、メイクの存在を忘れがちなようだ。これでどうやって今まで、大人の女をやって来れたのだろう? いや、そんな事はどうでもいい。
「なんで中学校がここにあるの?」
「並木道を通って来たからだろ?」
マコトは事も無げに答える。彼はわたしを自転車から降ろすと、片側だけのスタンドをガコンと足で立てた。風が吹けば倒れてしまいそうな不安定さだったが、マコトはもう用は済んだとばかりに自転車への興味を失っている。颯爽と乗り捨て、光に集る虫のように、白く発光する自動販売機に近付いて行った。わたしは可哀想な自転車への罪悪感に後ろ髪を引かれながらも、彼に付いて行く。
(なんだろ、喉が渇いたのかな?)
マコトはポケットから直に小銭を取り出し、投入口に差し込み、迷いなくボタンの一つを押した。たったそれだけなのに手品みたいに見えるのはどうしてだろう? ゴトン、と缶が落ちてくる。……冷たいお汁粉だ。
チカチカと光が点滅し、自動販売機から安っぽいメロディが流れた。たまにある、当たりくじ付きの自動販売機。ルーレットで四つの数字が揃えば当たり。もう一本飲み物が貰える。わたしは一瞬だけ自分の置かれた状況を忘れて、その運試しの結果をわくわくと見守った。
数字が回る、回る、止まる。
4、4、4、4。
黒い画面に、赤い文字で浮かび上がる、4444。妙に不吉なその連番に、わたしは思わず身震いした。4は死を連想させる忌み数だ。こういうスロットの結果としては、あらかじめ排除しておいて欲しい。普通当たりといえばラッキーセブンではないだろうか。
――そういえばあの都市伝説も、4時44分44秒に合わせ鏡をするというものだった。友人は鏡の世界なら、こっちの8時16分16秒に違いないと言っていたけれど。
「当たりだな」
プシュッとプルタブの開く小気味いい音。マコトがお汁粉を、お茶のようにぐいっと呷る。ごくりと跳ねる喉、くっきり浮かぶ喉仏の形に、わたしは何故か唾をのむ。
「あ、当たったのに、もう一本選べないね?」
わたしは彼に視線を奪われていたことを悟られないよう、自動販売機に顔を寄せて、くじについての説明書きを読んだ。しかしマコトが邪魔するように前に出てきて、何故か自動販売機の側面に手を置き……こじ開ける。
「えーっ!? 何してるの!」
まさか当たりの分が出てこないから、直接取り出そうとしている? そもそもどうやって開けて……
が、その思考は長くは続かなかった。自動販売機の中に、想像もしない別の空間が広がっていたことに、呆気にとられる。
(なに、これ)
振り返ったマコトはニヤリと笑って、わたしの手を取り、中に入っていった。
*
自動販売機の中を通って辿り着いたのは、夕暮れに赤く染まる校舎だった。校舎内にも外にも、見える限りの場所に人は居ない。
わたしはあまりの出来事に、長い廊下で呆然と立ち尽くす。マコトが「おーい」と鼻先で手をヒラヒラさせた。
「な、何で? どういうこと?」
自動販売機の中が学校に繋がっていて、しかも夜だったのが夕方になっている! さっぱり意味が分からない!
きっとわたしは相当面白い顔をしていたのだろう。マコトは小さく吹き出してから、笑い声混じりで説明した。
「さっき、くじを当てただろ? だからここは4時44分44秒の学校なんだ」
「はあ……?」
だからって、なにが? 全く理解できない。
何故、街で二人乗りをしていたら、いつの間にか遠くにある母校に辿り着くのか。自動販売機のくじで4444を引き当てたら、自動販売機の中が4時44分44秒の学校になるのか。まるで狐に化かされている気分だ。
「さあ、問題の場所に連れて行ってもらおうか」
連れて行けと言いながらも、マコトはまた迷い無い足取りで、先陣を切ってどんどん進んでいこうとする。わたしは慌てて彼のシャツを掴んだ。
「ちょっと待って!」
「何だよ」
「……トイレに、行ってきてもいい?」
こんな怒涛の展開になると知っていれば、寸前にあんなに飲んだり食べたりしなかったのに、とわたしは後悔した。誰も居ない学校のトイレになんて、絶対に行きたくないのに。
――マコトには廊下で待っていてもらい、わたしは出来るだけ平静を装ってトイレに入った。怖がっているなんて知れたら、マコトは面白がって脅かしてくるかもしれないからだ。……なんとなく、そういう本当に人の嫌がることはしなさそうだけど。
トイレは、ヒヤリと冷たい。籠った水のニオイがする。パチッと電気をつけると、思ったより不気味ではなかった。わたしはタイムアタックの如く素早く個室に入り、無心で用を済ませる。凄い勢いで個室から飛び出すと、素手で触るのが憚られる蛇口をひねった。
手を洗い、バッグからハンカチを取り出して、手を拭く。そんな日常の何気ない動作が、心を少しばかり落ち着ける。……それが油断に繋がったのかもしれない。わたしは無意識に、できるだけ見ないようにしていた、目の前の鏡を見てしまった。――映るのは、怯えた顔の自分。その首元には“獣のような毛むくじゃらの黒い手”が、背後から伸びている。
「……っ」
黒い手が、わたしの首を締め上げる。助けを呼ばなければいけないのに、声が出せない。
わたしは無我夢中で、頭を振り、体をよじって、足をバタつかせ、黒い手に爪を立てて抵抗する。そんなわたしの全力を嘲笑うかのように、黒い手はびくともしなかった。
酸素の不足した頭が、くらくらと眩暈を引き起こす。意識に靄がかかる。ぐったり力の抜けた重い体は、いとも容易く鏡の中に引きずり込まれ……わたしはそこで意識を手放した。
最後の瞬間「おい、まだか?」とマコトの声が遠くで聞こえた。と、思う。
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