13 ジンジャークッキー
急ぎ足でホテルの部屋に戻ると、バスルームでの洗濯を終えた彼女が大判のタオルを巻きスカートのように腰に巻いてぐったりとソファに横たわっていた。
「下着とストッキングを干しながら、シャワーを浴びようと思ったら、お湯がぬるくて」
彼女は起き上がろうとする気力もない様子で、うっそりとそう言った。
ジョナサンはソファの前のテーブルに荷物を置き、彼女の様子を見るように顔をうかがい、額に手を当て、なぐさめるように手をとった。
「温かいものを持ってこさせよう。薬局でいいものを教えてもらったんだ」
そういって、ベッドから毛布を取って彼女の胸元から足先までを包むようにかけた。
それから部屋の電話でルームサービスに紅茶と焼き菓子を頼み、それが来るのを待つ間、彼女に寄り添って床に座った。
スチーム配管によるセントラルヒーティングは充分に効いている。それでも彼女の今の身体にはまだ不足していた。いくら日差しのある南の海岸街とはいえ、既に冬だ。外も海風があって寒かった。
当然海水浴客はおらず、ホテルを利用している他の観光客もせいぜい釣りかヨットか日光浴が目当ての客くらいである。
「床じゃなくて、こっちにきて」
そういいながら、エヴァは手を引いて枕代わりにしていたクッションを避けた。
膝枕をしてくれ、というのだ。彼女なりに甘えているのである。
ジョナサンはにこりとして、これに従って上着を脱いでスラックスの膝の上に彼女の黒髪の頭をそっと置いた。
そして両手をすり合わせて息をふきかけて温めてから、そっと彼女の髪に触れた。
よれた前髪を耳にかけて、額に手をあててやる。ほんのりと冷えている。
「手、あったかい」
手の上から自分の額を抑えるように、冷たい指先を重ねてきた。その中指に安物の鉱石のはまった銀の指輪がある。
「帰りは半分走ってきたからね」
「転ばなかった?」
と、ふふと力なく笑んで言った。
「途中でこちらの名物の石畳につまづいたが、宙返りをして無事着地した」
そういうと、吹き出すように笑った。
「うそばっかり」
「ふっ、見てないくせに」
「見なくてもわかる……せっかく最後かもしれない二人旅行なのに」
返事のかわりに、重ねられた右手を浮かせて顔をよせ、そっと口づけをした。そして温めるように頬にすり寄せた。
「揺れない場所でゆっくりするのも悪くない」
「……なんで離婚しなきゃいけないんだろうね」
「それは、君がそういい出したからだろう。実際、アルバートの事を考えたら、離婚しておいたほうがいい」
「それはわかってる。そういうことじゃなくて」
「うん、ゆっくり聞かせて」
そういうとエヴァは寝返りをうつようにジョナサンの腹の方を向き、体の匂いを思い切り吸い込むように息をついた。
「怖いの。誰にも話せない関係を始めるのが」
「うん」
「誰もが、一人と一人が付き合うものだと思ってる。それから外れるとたちまちに嫉妬や犯罪扱いや、裏切りだと思われる。そんなことないのに。すくなくとも私は、あなたもアルバートも同じくらい愛してる。それ以上に愛されてると感じてる。今も。自分に素直になって、その気持にも応えたい。ただそれだけなのに」
「うん、わかるよ」
「なのに、どうしてこの指輪を外さなければいけないんだろう、って。あの日誓ったことをなかったことにしなきゃいけないんだろう、って」
「指輪を外しても、僕は君の側に居続けるつもりだよ。多少は生活や、一緒にいる時間は変わるかもしれない。だけど、結婚式で誓った気持ちは消えないよ」
そういうと、彼女はすんすんと鼻を鳴らしだした。ジョナサンはジャケットのポケットから柔らかいハンカチを出して差し出す。エヴァはそれで軽く目鼻をぬぐった。その仕草でないているとわかった。
「ありがとう」
そう応えたところで、部屋のドアがノックされる音がした。
「ルームサービスです」
「はい、どうぞ」
そう声をかけると、彼女はもぞもぞと起き上がって、並ぶ形に座り直した。体に巻き付けた毛布が厚手のドレスのようになっていた。
ドアが開き、ティーセットを乗せたカートを押した客室係が入ってくる。
客室係は慣れた所作で二人の前に茶を供し、焼き菓子の盛り合わせとポットを置いて出ていった。
ジョナサンは菓子屋の包みを取って、中の粉をスプーン半分ほど紅茶の中に落とし、砂糖を一匙入れてかき回して、彼女に差し出した。
「飲んで」
「なあに、粉薬?」
「ううん、生姜の粉、体が温まるんだって、薬局の人が言ってた」,
「ああ……それならジンジャークッキーでも買ってきてくれればよかったのに」
「まだ時期が早くないか? あれはクリスマスに食べるものだろう」
「学校の近くのベーカリーでは夏でも置いてる。生理のときは買って食べてる」
「そうなのか……こういう話、あんまりしないよな」
「そういわれれば、そうねえ。というか、男の人って引いちゃうっていうでしょ。血の話だし」
といって、うけとり、まず疑うように匂いを嗅いでから一口のんで、少し詰まった。
「……粉っぽい。お砂糖もっとちょうだい」
これに、ジョナサンは苦笑して、彼女のカップに砂糖を一匙二匙と注ぎ足す。
「薬だと思って飲んで。お菓子も食べたら、アスピリンが待ってる」
「まるで薬漬け」
そういわれて彼は笑った。
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