12 月のもの
二人の心の奥底は、さざなみのようにいささか複雑だった。
今は目の前の人間とむつみあっている。だが、飛行船が目的地についたら間違いなくそれぞれの別の恋人あてに国際電報で無事の到着を伝えるのだ。
二人とも相手にそう約束をしてこの旅に出ていた。
つまり、心は必ずしも目の前の相手だけにない。そのことに少しの後ろめたさがまだあった。
互いに、四人とも合意了承は取り付けている。
だからこれはいわゆる不倫でも、浮気でもない。それでも、世間一般の一夫一婦という規範から大きく外れた場所に立っているのは間違いない。
そのことが、少しの不安となり、その不安が一般規範という理論武装をまとって心のなかでまだうごめいているのだ。
喉に落ちる炭酸は淡く、しかし酸味は目が覚めるように鋭かった。
げっぷをこらえて一息つくジョナサンの膝の上に、エヴァが手を乗せていた。
彼女はサングラスをかけた顔を人垣越しの遠い大きな窓の外の空に向けたまま、はっきりと言った。
「大丈夫よ。私達の間に嘘偽りがない限り、愛だけは本物だから」
「ああ、他にこの関係をまとめ上げるものは何もない。法も、神も、力にはなってくれない」
ジョナサンはそうつぶやいて、エヴァの手を握り返した。
このようにして、二人旅は始まった。
……対岸の都市についたらまず空港の電報局に寄った。理由は重ねて述べるまでもない。
それから長距離夜行列車で南に3日。
前回は夏の旅であり、白い砂浜での海水浴を目指した旅だった。だが今回は冬の迫る寒々しい空から渡り鳥のように温暖な地と日差しを求めての旅行になる。
南下し、温暖で空気のきれいな海辺の街で1週間ほど連泊……の、予定だった。
事は夜行列車を降りる日に生じた。
車中でもその兆候はないわけではなかった。
食堂車の食事がよほど口にあったのか、いつになく食欲旺盛だった。そして、触れ合うと妙に火照り、軽い風邪でも引いたように鼻をよくかんでいた。
列車旅の最期の朝、エヴァの月のものが来たのだ。
観光を先送りにしてまっすぐに連泊するホテルにチェックインを済ませると、エヴァはそのままホテルの個室のバスルームにこもった。幸い、駅からホテルまでの道中はコートを上から着ていたために服の汚れが人目に触れることはなかった。
ジョナサンはルームサービスの洗濯代行に血のついたスカートを託した。
その最中もバスルームの扉越しには血を吸った下着をじゃぶじゃぶと浸し洗いする音がしていた。既に駅のトイレで月経帯はつけたというから、その前に履いていたものを洗っているのだろう。
ジョナサンは電車旅の間に前兆に気づくべきだったと後悔した。いや、おそらく自分以上に彼女自身がその後悔を感じていることだろう。旅にうかれて体調の変化を軽視してしまったのだから。
間を持たすかわりに、ルームサービスに電話をかけ、いつも家で月のものの時期に飲んでいるハーブティを頼もうとしたが、取り扱ってないと言われた。
ジョナサンは意を決してバスルームのドアを叩き、薬局で脱脂綿と痛み止めを買ってくると告げた。
返事は軽く「気を付けて」とだけだった。その声色は思ったよりも軽く強く、変に傷ついたり気負ったりしている風はなかった。
部屋に彼女を一人きりにするのは気が引けたが、彼女は教師をしているだけあってこちらの言葉に堪能であり、部屋係がきても一人で応対できる。むしろ慣れない言葉で買い物を正しくできるかというジョナサンの方が危なっかしいくらいだった。
街に出ると潮風の匂いがした。緑の太い十字の看板を探して街を歩く。
パン屋の店先の匂いは地元より強く感じられた。馬車とそして地下配管清掃の蒸気の匂いに若干の地元っぽさを感じて不安感が軽くなるのを感じた。
行き交う人の服はジョナサンのコートよりも薄く軽い生地が多い。店舗の大窓にしばしば映るって見える自分は場違いな厚着で、風土に親しめていない異邦人としての異物感があった。
二人でホテルを目指して急いでいた時はそんな事を感じている余裕もなかった。
薬局を見つけると、脱脂綿の大袋とアスピリンの瓶入り錠剤を買い、ついでに
『なにか女性の月のものに効くものはないか』
とつたない現地語で尋ねると、向かいの菓子屋を指さされた。
『あそこなら生姜の粉末を菓子の材料として扱ってる。月のものが始まってるなら体が冷えてるはずだ。紙に書こう』
といって、小さな紙切れに処方のようにこちらの言葉で綴ってくれた。
『ありがとう』
たどたどしく応えて受取り、もちろんチップも多めに渡した。
言われた店は、派手な子供向けの装飾の施された店構えをしていた。ここも成人男性が一人で入るには若干のいづらさを感じたが、怖気づく心を振り払って、店の戸をくぐった。
案の定、店内は子供か子連れの客ばかりだった。
まっすぐにカウンターに向かい、乾燥ハーブの
奥の接客係に薬局で差し出された紙を見せると、一瞬怪訝な顔をした。
だが、観光客風の身なりと、左手薬指の指輪、抱えた薬局の包みを見て何事か察したようで、すぐに用意にかかってくれた。
乾燥生姜の粉の包みを包装してくれる。
『これをミルクティ一杯につき半さじ、砂糖と一緒に溶いて飲んでください。お大事に』
『ありがとう』
そういい交わして、ここでも釣りをチップとして受け取らずに店を出た。
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