11 飛行船とロケット
数分とたたずに、船体はゆらりと揺れて浮き上がった。そしてそのままするすると飛ぶ鳥の視線ほどの高さまで上がると、エンジンはより高音でうなり始めた。
アンカーロープが外れる衝撃が短い地震のように飛行船を揺らす。
そうして飛行船はゆっくりと始動した。
「お待たせ致しました。本船は無事出港致しました。個室ご利用のお客様は食堂客室においでの際はお部屋の施錠をよろしくおねがいします。本船は無事――」
そんなアナウンスが先程のハンドベルとともに聞こえる。
「どうする? なにか飲みにいこうか?」
「うん、ちょっとまって」
と言って彼女は一服ふかしてから煙草の火を消した。
通路に出ると、指示通りの荷物を置いた指定個室の鍵をかけた。個室番号の札付きの鍵をスーツのポケットに入れ、二人は腕を組んで進む。
それぞれに持ち物はジョナサンはスーツのポケットに収めたものだけ、エヴァはハンドバッグ一つだ。
食堂客室のバーカウンターに立つと、すぐにバーテンダーが寄ってきた。
ジョナサンは瓶入りの炭酸レモネード、エヴァはジントニックを頼む。
外の景色が見られる座席は、既に二等客席を中心とした乗客で賑わっていた。まだまだ誰もが、空を飛ぶということに慣れていない。
まして、鳥ほどの高さと速度で飛ぶこの巨大な銀の楕円体の船底のキャビンの大窓は、肉眼で見える景色になんともいえない生々しさがある。これは高層建築から地上を見下ろすのともどこか異なるなんともいえない楽しさがある。
外向きの席は立ち見まで出ているのに対して、内向きのカウンター席は空きが目立つ。
二人はそこに並んで座り、軽く乾杯を交わした。
一口飲んで、エヴァは思い出したようにハンドバッグの中に手を入れた。
取り出したのは小さな懐中時計ほどもあるロケットペンダントだった。その表面の彫金の柄を見て、ジョナサンは少し切ない気持ちになった。
ぱちりと音を立てて蓋を開くと、シューベルトの『野ばら』の一節が流れ始める。もう一方の写真入れには夫婦の写真が入っている。
婚約の申し出の時に、彼女に送った品だ。チェーンの付け根がゼンマイのリューズになっていて、中にはゼンマイ式のオルゴールが仕込んである。設計の図面はジョナサン自ら引き、職場のツテで時計職人に特注で作ってもらったものだ。
エヴァは稼働は確かめたというようにぱちりと蓋を閉めると、曲は止んだ。
彼女はそれをそのまま、握手のようにジョナサンの手に握らせた。
「……離婚するから?」
にわかに怯えた風に問うジョナサンに、エヴァはサングラスを外し、慰めるように微笑んで手を重ねた。そして上目遣いで彼の目を見たまま首を横にふった。
「今度は四人になるでしょ、中の写真を変えないと。私が自分でやって壊したら嫌だから」
そう言われて、ジョナサンは安堵からたまらなくなって隣に座った彼女を抱きすくめた。
その背中をぽんぽんとなでながら、エヴァはささやいた。
「ちょっと、子供が見てる」
そういわれて、慌てて体を離す。すると彼女は、本当に数メートル先で立ち話をしている母親のスカートの陰から、ぼんやりとこちらを見ているまだ未就学かと思うほどの幼い子供に微笑みかけた。
するとその子は、照れたように笑んで、まるでカーテンかなにかに隠れるようにスカートの陰に隠れた。
教師としての振る舞いもそうなのか、と思わせる品のある口元をした笑みだった。
それを見て、ジョナサンは複雑そうな苦い笑みを見せた。
「なあに?」
やや怪訝な顔をして口を尖らせたエヴァに、ジョナサンはふっと一笑した。
「いや別になにも。ただ、あいかわらずなんだな、と思っただけだよ」
――知り合ったばかりの頃、エヴァの子供に接する時と大人と接する時で態度が違うことを指摘したことがあった。
『職場では、そんな風にわきまえた感じなの?』
と。当時のエヴァは子どものように口を尖らせていたのをジョナサンは記憶している。
そして、まるで素行の悪い少女があっけらかんと自分の悪行をあけすけにするような口ぶりでこう言った。
「まあね、多少は世渡りも上手くないと。ありのままだと息苦しいばかりだから。その分プライベートは正直に生きてるつもり。煙草も吸うし、デモや集会にもいくし」
――それをジョナサンは思い出して、笑ったのだ。
エヴァはあの日のように口を尖らせていた。その頬に垂れた横髪を耳にかけながら、視線を引く。
「僕は好きだよ。そういうとこも。まぁ、彼にも化けの皮は剥げているようだし、いいんじゃない?」
そういわれて、彼女は悪い気はしないというように白い歯を見せてサングラスをかけなおし、酒を一口飲んで、グラスの淵を指で拭った。
つられるように、ジョナサンもレモネードをあおった。
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