10 タバコとミント

 大型飛行船はいつみても馬鹿馬鹿しいほどに巨大だった。

 乗員数70名、4時間ほどで海峡の向こうの国の都市へと渡る空飛ぶ船だ。


 空港から搭乗口に出て、エヴァは巨大硬式飛行船の銀色の船体を仰ぎ見るなり、はしゃぐ子どものように声をあげた。


 黒い髪は肩口で内に巻き、サングラスに白のスカーフとクリーム色のコート、真っ赤な唇が鮮やかだった。

 ジョナサンもおろしたてのスーツにグレーのギャバジンのコート、スーツと同じ色のハットを合わせている。


 その無邪気さにジョナサンは少し笑った。

 彼女はいつも自由奔放だった。これで職場や保護者からは教育者として人格者で通っているのだから、人の貌というのはわからないものだ。


 今回は普通の船旅でも良かったのだが、新婚旅行の再現ということで敢えてこちらを選んだ。

 ……おそらく、これが二人きりで行う最後の旅になる。今後旅することがあるとすれば、そのときは四人連れになるだろう。


 乗船し、列車の一等客車のような対面席の客室に入ると、そこに据えられた灰皿を見てエヴァは花飾りでも見つけた少女のように小さく興奮した声をあげた。


「見て! 部屋に灰皿がある。さすがヘリウム船ね」

 これをきいて、ジョナサンは苦笑した。

「外の景色よりもそっちか」

「だって、新婚旅行のときは水素船で吸える場所が狭かったんだもの。その上怖い見張りの人まで居て、火のついたタバコを持ち出さないかずっと見られてた」

「それは申し訳なかったね」

「なんであなたが謝るの?」

「前回のときは飛行船の瓦斯ガスの種類を確認せずに客室を予約した」

「そうね、けどいいの。あの時は上等な香水もつけてたし、客室で煙草の匂いと混ざる心配なんかしなくてよかったから」

「前向きに受け止めてくれてありがとう」

「いいえどういたしまして」


 スーツケースを固定バンドつきの棚にしつけながら、ジョナサンはふと鼻を動かした。

「けど、今回はいいのか?」

「ん?」

「今日もあの時と同じ香水をつけてるだろ?」


 これを聞いて、サングラスをずらし、出しかけたタバコをハンドバッグに戻そうとした。ジョナサンはその手首をつかんで、タバコ入れを開かせた。


「ちょっとやめてよ、吸わないんだってば」

「いま吸おうとしただろ、遠慮なく吸いなさい」

 そう言い合いながらジョナサンは彼女のタバコ入れから一本出して軽くくわえた。


 これを見て観念したようにエヴァは少し笑ってタバコ入れの蓋をパチリと締めた。

 ジョナサンは懐から自分のオイルライターを出して火をつけた。火を灯すついでに煙をひと吹かしして、彼女の赤い口紅で彩られた口に差し出す。

 彼のライターは自分で吸うためではない、妻のタバコに火をつけるために常に持ち歩いていた。

 彼女はせっかくの香水が台無し、とでも言うように少し唇をへのじにしてから、それを受け取って胸いっぱいに吸った。


 そして口の脇から紫煙を吐き出し、それから間髪いれずにタバコ入れを持った手でジョナサンのうなじをつかみ、顔を引き寄せた。そのまま唇を重ね、舌をからめる。

 戸惑った唸り声を漏らしつつも、ジョナサンもこれに応える。タバコの火だけが怪我をさけるように少し離して高く掲げられている。


 音がたちそうなほどの接吻から口を離して息をつくジョナサン。

「たばこが苦い」

 ジョナサンがそういうと、エヴァはいたずらっぽく笑ってサングラスを外し、彼の唇についた赤いものを指で拭った。

「そっちはミントキャンディの味。相変わらずね」

 そう言い合って、互いに少し笑った。


 ほどなく船体からは車のエンジンほどの低いレシプロの始動音がした。

 廊下からハンドベルとともに「間もなく離陸でーす、船員から指示があるまで客席に座ってお待ちくださーい」という声がした。

 二人は内心に少し燃え上がるものを感じながら、その興が冷めたという顔をしてそれぞれ窓際の席に向かい合って座り、ベルトをしめた。

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