9 乾杯

「結婚式の時、あまり惜しんでいるようには見えなかったが、嫉妬や悔しさはない?」

「ありましたよ、多少は、ただ大学で東洋宗教の講義を聞いたことがありまして、それ以来考え方を変えました」

「というと?」


「この世のあらゆる事柄は苦しみにつながっている、という考え方があるそうです。人生の苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、そして死の苦しみ。愛するものを失うことや人や物に執着して嫉妬することもそのあらゆる苦しみのうちに過ぎない、と」

「なかなか悲観的な考え方に聞こえるね」

「ええ、大事なのはここからです。生きることは苦しむこと。それを諦めて受け入れることが大切だと言うんです。そうすれば、今度は今あるもので満ち足りた心を得ることができる」


「それは、なんというか、こういうことかい? 自分が何も持たないことを自覚すれば、今あるものでも十分満ち足りていることに気付ける、と」

「まあ、そういうことだと思います」

 それをきいて、ふう、と小さく息をついた。


「君は、達観してるな。まるで修道士のようだ」

 そういわれて、アルバートはふふんと少し笑った。

「それでも婚約したと手紙で知ったときは一晩頭を抱えましたよ。酒も胃が受け付けないほど叩きのめされました。それでも、寝て起きて、最初に頭に浮かんだのはその東洋宗教の講義の話でした」


「なるほど、その講義を行った教授には私は恩があるわけだ」

「まあ、そうかもしれませんね。けど、受け入れられたのはそれだけでもないんです。ミストレス・メイがどういう方かはあなたが一番ご存知でしょう」

「聡明で怒りっぽくて、直感が強くて進歩的」

「ええ、まさにそうです。同世代の女の子たちや母親ともまるで違った。洗練されていて、まるで言葉と知恵で出来た野生の豹のような方です」


 それを聞いて、ジョナサンはくすりとした。

 洗練された野生動物、という印象は彼も魅力的と感じるところだった。

「わかるよ。僕もそこにひかれたし、結婚してもその感覚だけは変わらない。よく人は結婚すると変わるというが、彼女は変わらなかった。変わることを拒否し続けた。あれが彼女の素質なんだろうな」

「ですね」


「それで、彼女からは手紙でどこまで聞いてる?」

「ええと、それは……僕とあなたで、彼女を共有する、という話ですか?」

 それを聞いて、ジョナサンは軽く咳払いをした。

「すみません、共有だなんて、物じゃないんですからね……」

「ああ、一応これは彼女の提案だ。その関係を円滑に進めるために離婚の準備まで進めてる」


 離婚と聞いて、アルバートは目を見開いた。

「そんな、そこまでは」

「彼女は本気だよ。ついでにいうと、僕にもエヴァ以外の交際相手がいる」

 それを聞いて、アルバートは見開いた目をそのまま呆然と遠くにやり、しばし考えてから、なにか納得したように軽く何度か頷いた。

「先生が革新的な方だとは思ってましたが、そこまで進んだ考え方の持ち主とは思いませんでした。それはまるで、旧態依然とした婚姻制度に対する挑戦だ」


「エヴァがそこまで考えてるかどうかはわからない。ただ、最初に聞いたときは驚いたよ。僕も浮気や不倫をする気はなかった。そんなことをして彼女を傷つけたくなかったからね。……だがエヴァは違った。彼女はいかなる形であれ、愛情とは尊いものだと考えてる。一つの関係を守るためにほかの愛情を抑圧したり、抹消したりすることのほうが間違いだと考えてる」

 アルバートは今にも涙をこぼしそうなほど目を赤くしてじっと話をきいていた。まるで静かに感動しているかのようだった。

「つまり、それは、彼女も僕の愛情を受け入れるために動いてくれている、ということですか?」


 ジョナサンはしっかりと頷いた。

「ああ、離婚することも含めて、これからの4人の関係を作っていくにあたって、エヴァと話し合う中でわかったことがある。というより、自覚はあったのに見て見ぬふりをしていたことに気づいたんだ。僕やエヴァのような人間は、人への愛情は一つの器一杯分だけではない。

 例えば親を敬いながら、妻を愛し、あるいは子供を愛情をもって育てることができるように、複数の相手に対しても、十分な愛情を向けることができる。エヴァはそれをはっきりと自覚していたんだ」

 アルバートはこれをきいて、こくこくと頷いた。


「だが、彼女の愛情が我々2人分あっても、その体はひとつしかない。ここで一つの問題が生じる」

「いつどちらが彼女のそばにいるか、ですね」

「ああそうだ。それに君はずっと感じ続けてきたはずだ。僕と彼女が共に暮らしていることに対する嫉妬を」


 その言葉に、アルバートは目を剥いて首をぶんぶんと横に振った。

「いえ、そんな……先生が幸せなら、僕は……」

「これまではそうだとしても、これからいざ直接触れ合う生活が始まってみたら変わるかもしれない。少なくとも体で愛し合うことを知るということは、それを引き起こすに十分な魅力がある。例えば、彼女の誕生日にどちらが彼女とベッドを共にするか、とかね」


 アルバートは少しうろたえつつ、何かを想像して耳まで赤くして顔を伏せた。

 その様子を見て、ジョナサンは彼が本当に純潔であることをまざまざと実感した。

「そう、ですか……」

「そういう内なる魔性に備えて、僕たちは互いに競争相手ではなく、仲間になっておく必要がある」


「エヴァ・メイを愛する同志として、ですね」

「ああ、そうだ」

 どこからともなく2人のもとにウエイターがやってくる。そして料理の皿をそれぞれの前に置き、両者の間にソースポットを置く。

「さて、料理も来たし、あと半分で昼休みが終わってしまう。これからどうしていくかは少しずつ、じっくり話し合って決めていこう。それに友としてお互いを知り合う必要もある」

「はい、そうですね」


 二人はどちらからともなく飲み物を手にとって軽く掲げた。

「では、我らを愛するエヴァ・メイに」

「ええ、愛し合うエヴァ・メイに」

 そう言い合って、同時に一口飲み、食事に取り掛かった。

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