7 提案
この話をきいて、ジョナサンは頭を抱え、マリッサは顔を覆った。
「アルバートって、結婚式に来てくれてたあの子か?」
「そう」
「え、じゃあ私も会ってるの?」
「ほら、居ただろう、20歳くらいのダークブロンドで、緑のタイをしてた子だ。僕も初対面だったけど……教え子だとは紹介されたけど、そういう関係の子とは……いや、確かに言われてみればあの子だけ他の教え子達とは喜び方が違った。なんというか、こう、感慨深げというか。まるで自分の姉かなにかの結婚を祝うみたいだった」
エヴァは立ち上がり、窓を開け放った。朝の空気が古い本の匂いで満ちた部屋に入ってくる。
「煙草吸っていい?」
エヴァの言葉に、マリッサは窓の下に置かれた小さなブリキのバケツを窓辺に置いた。それがどうやら灰皿代わりのようで、中には安物の細葉巻の吸い殻がいくつかある。
マリッサも喫煙者だ。この時代、女性の喫煙者はさほどめずらしくない。
「なるほど、君は若い愛人候補がいて、僕には彼女がいる。それぞれに愛人として囲って暮らそう、と」
「もう一つ手がないわけじゃないよ」
エヴァはカバンから真鍮のタバコケースを出し、中から紙巻き煙草を一本引き抜いて、赤い唇にはさむ。
ん? と小首をかしげる2人を尻目に、マッチを擦る。火薬が爆ぜるように大きく燃え、芯木に移って火が落ち着く。
「私達が離婚するの」
そういって、煙草の先に小さな火を寄せた。
これに2人は声を上げた。
エヴァはそれを浴びながら、すまし顔で紫煙を窓の外めがけてふーっと吐いて、マッチの火を消しバケツに落とす。
それからくるりと振り向いて、言った。
「ミスター・リーは法律関係に勤めてる。そういう身で年上相手に不倫関係を結んでるというのは、立場上ちょっと問題がある」
「うん」
「それに、正直なところ私達はもう限界だと思うの」
えっ、とマリッサが声を漏らす。ジョナサンの方は渋い顔でなにか察したように遠くを見た。
これを見て、エヴァは窓を背に手のひらを見せた。
「待って、誤解しないで。愛がなくなったわけじゃないの。子どもの相性の話よ」
そう言って、煙草の灰をバケツに落とす。
この言葉に、マリッサはジョナサンの顔を見た。
ジョナサンも同じことを思っていたというように、小さく何度もうなずいていた。それでも離婚までは想定外だった、とでもいうように口元をなでた。
どちらに原因があるかはわからないが、ジョナサンとエヴァの間にはどうにも子供ができない。それを『相性の問題』として捉えているのだ。
「……たしかに、親の催促も面倒だしな。最近は仕事の師匠まで子供はまだかと言ってきてる」
「けど、私もそろそろ産むの難しい年だよ? それに私は……」
マリッサは自分からそこまで言って、言葉に詰まった。彼女は30代の半ば、初産には危険な年頃だ。今の医療では帝王切開にでもなれば命に関わる。
ジョナサンは微笑んで首を横に降った。
「それは気にしなくていいよ。マリーが体の関係に関する欲求がないのは知ってる。『どんな男とも4度目のデートより続かない』って、自分で言ってたじゃないか。というか、これまでの関係でも、あなたが僕にとって大事な人であるのに違いはない。……ただ、こういう湿気と埃に満ちた部屋で、一人で年をとっていくのを見過ごしたくないんだ。それなら、一緒にもっと清潔で健康的なところで暮らしてほしいって思ってる」
「そう……」
窓からの風に乗って紫煙の匂いが、部屋の中に満ちはじめる。まるでエヴァの言い出した突飛な提案に2人の思考が染まっていくようだった。
「けど、離婚か」
「イヤ?」
「うん、寂しいよ……だけど行き詰まってるっていうのは事実だし、現状を変える必要があるとも思ってる。例えば子供を作る以外の方法でね。それが離婚なら、これまで考えたこともないけど、手段としてはあるのかな、って」
「言い出しといてなんだけど、すぐに結論は出さなくていいと思う」
あっさり言うエヴァに、マリッサも大きく頷く。
「うん、そうだよ。私も考える時間がほしい。確かに私にとってミスター・クレインは大切な友達。これまではあくまでもお客さんだったから、ずっと一線引いて考えてた。他の男とは、何度かその一線を踏み越えようとしたこともあったけど、みんな私を顔や身体しか見てなかった。ミスター・クレイン以外はね。それに、そもそも珈琲屋の女給仕ってだけで、足元を見られることも多いし」
大きく煙を吐いて、エヴァは相槌をうった。
「わかる。見下されてたんだね。私も学校で生徒の父親とかに会うと、大抵見下されてる」
「うん……それに、昨日の夜のミスター・クレインみたいに、風邪を引いてると聞いてまっすぐ駆けつけて看病してくれるような人は、店のおかみさんくらいしか居なかった」
エヴァは煙草の火を消してマリッサの側に寄り、手を取った。
「辛かったね」
これに、にわかに目をうるませて頷くマリッサ。
目の前の2人の女性を見て、ジョナサンは腹を決めたように頷いた。
この2人なら仲違いせずにやっていけるかもしれない、そう思ったのだ。
「わかった、僕は前向きに考えるよ。離婚したうえで、2人と一緒に住むことを」
その言葉に、3人はうなずきあった。
遠くで鐘の音が鳴る。午前9時の鐘だ。
これにはたとして、ジョナサンは帽子と仕事鞄をつかんで腰を上げた。
「さて、悪いけど、僕はそろそろ本気で仕事に行かないと」
うなずくマリッサ。その側からすっと立ち上がるエヴァ。
「ミストレス・バトン」
「マリーでいい」
「マリー、あなたはもう少し寝ていて。その間に私が部屋を掃除するから」
「えー、いいよ」
「だめ。こんな埃っぽい部屋、絶対体に良くない」
そのやりとりを聞いてジョナサンはくすりと笑った。
「じゃあ行ってきます」
そういって、送り出しに近寄ってきたエヴァの頬にキスをし、マリッサにも軽く抱擁をかわして、部屋を出ていった。
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