3 電話
マリッサの部屋はまずかび臭く、セントラルヒーティングの導管がひかれていないようで冷え切っている。そしてなにより半地下で湿気もある。
……そうそう長生きできる気がしなかった。
彼女の給金では、おそらくまともなアパートメントでは暮らせないのだ。いや、そんな金があれば本を買ってしまうのかもしれない。彼女は客との会話についていけなくなることに不安を感じている。客との会話も仕事のうちだからだ。
そのために古本を買い、客の置いていった新聞などを持ち帰って集め、読み漁っていた。
すべてが生きるために一本につながっている。
ひとつでも破綻すれば、彼女は路上生活者に戻ってしまうだろう。そして、人知れずに老いた野犬のように道端でうずくまって死ぬかもしれない。
それを思うと、少し胸が締め付けられるような気持ちになった。
この感情には覚えがあった。
寄宿学校時代、大きな戦争があり、父が徴兵されると手紙で知った時だった。
ジョナサンの父は地元の開業医だった。だから徴兵されたとしても軍医であり、前線に赴くことはまずありえない。だがまだ幼いジョナサンは直感的に父が死んでしまう、永遠に会えなくなってしまうと思い込んだ。
当時は居ても立ってもいられず、学校に学期中の短期の帰宅願を出した。
事情を
父は半泣きで返ってきた息子を微笑みながら抱きしめてくれた。
そして、父は兵役を勤め上げて五体満足に返ってきた。ただ、戻ってからは毎晩酒浸りだったという。おそらく、数え切れないほど痛ましい傷痍兵達を見てきたせいだろうと母は言っていた。
父は結局、その深酒が原因で体を壊して死んだ。まだジョナサンが大学に在学していた時だった。
幸いにして父の死亡保険金で大学の学費は払えた。
独り身となった母はジョナサンの叔母の家族に身を寄せている。
一応、ジョナサンは母が肩身の狭い思いをしないようにと叔母と母それぞれに仕送りをしている。
エヴァとの結婚を機に母を街に呼び寄せようともしたが、煙たい都会暮らしは嫌だと拒まれた。
だが大方本音としては、エヴァと母とがあまり性格的な相性がよくないことを気遣ってのものだろう。
エヴァは社会の男女の不平等に怒りを抱えた、進歩的な人だった。
その聡明な猛々しさは、まるで野生の獣のような魂の美しさに思えて、ジョナサンは惹かれたのだ。
だが母は、女はとにかく温和であるべきで家庭を守って生きるのが本分、と思っている。決して相容れるものではない。
……ジョナサンは少し考えて、
「ちょっと大家さんに電話を借りてくるよ」
と言って部屋を出た。
マリッサの住む下宿の大家宅は明るく、暖かく、賑やかだった。
電球にも曇ガラスの傘がかかり、区画暖房用の蒸気配管が廊下の壁まで巡っていて、子供も多い。
電話を借りている間も、廊下の奥からおませな姉妹がクスクスと笑いながらジョナサンのことを覗き見している。
少女らに愛想を込めて会釈をしたとき、電話口でぷつりと回線がつながる音がした。
「はい交換局です」
はつらつとした女性の声がそう言った。
「ラスター通り32号の21番に」
「はい承りました、少々お待ちください」
電話はすぐに保留のオルゴール音に変わる。
そしてそれが途切れると、聞き慣れた声が
「もしもし」
と応えた。エヴァだ。
「もしもし、僕だ。急で悪いんだが今日は帰れない」
「え、仕事?」
「いや、マリッサが風邪で寝込んでる。かなり消耗してるから今夜は看病したい」
それをきいて、深い溜め息が聞こた。
「……わかった。明日の朝、学校行く前に朝ご飯もっていくから、一緒に食べましょう」
「……すまない」
「いいよ、そのかわり、棚のウイスキー飲むからね」
「ああ、それは構わないよ。……ただし、ツーフィンガーで3杯まで。君は酔っ払うと足がふらつく。転んで頭を打っても今夜は世話できないからね」
「はいはいわかりました。じゃあおやすみなさい。愛してる」
「ああ、おやすみ、愛してるよ」
そう言って電話を切ると、大家さんに礼を言い、頭をさげてもう一つ頼んだ。
マリッサのために、湯たんぽを借りるためだ。
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