2 住まい

 馬車街道に出てすぐのまだ開いている惣菜屋で、ローストビーフのサンドイッチを持ち帰りで頼み、自前の空の寒暖壜テルモスにチキンスープを入れてもらう。

 その足でマリッサの住まいである下宿先、馬車街道を渡った少し先の古本屋近くの半地下の部屋に向かった。


 下宿部屋には区画の棟に囲まれた裏庭に抜ける小道から直接入れるようになっている。

 棟ごとに連なった裏庭を仕切るような細道の真ん中には満月よりも鋭く光るアーク灯の街灯がひとつ灯っていた。

 そのジリジリという雑音を聞きながら、眩く揺らぐ光の下の砂利敷の細道に踏み込む。


 途端にどこかの犬がけたたましく吠える。その声に、若干の居心地の悪さを感じながら、早足で彼女の部屋に向かった。

 大家宅の裏庭と思しき生け垣は秋咲きの薔薇がいくつかしぼんでいたが、まだ甘い香りがしていた。


 その半地下に下がる階段に並んだ、地面ギリギリの高さの鎧戸のかかった窓はほのかに明かりが漏れていた。

 勝手口のような半地下の階段を降りてドアを叩こうとすると、彼女の咳をする声が聞こえてきた。


 軽めにノックを3回して、「僕だ、ジョナサンだ」というと、

「待って」

 と少し低いハスキーな声が気だるげに返ってきた。


 ゆっくりと咳をする声がドアの向こうで近づいてくる。そして鍵が二つ外れる音がして、戸が開く。

 彼女は真っ暗な部屋で肩に毛布をかけて、力ない裸電球の明かりの下で青ざめた素顔を晒した。ガウン姿で、赤い巻き毛を三つ編みにして肩にかけている。


 とっさに彼女の手を取ると、水に浸していたかのように冷たい。

 ジョナサンは、やはり、と思った。

 マリッサは風邪を引くと食欲をなくす。おそらく今日も朝から寝たきりでほとんど何も食べていないのだろう。


 彼女の一間ひとまとバスルームだけの住まいは本の山だった。

 そして、通りより風がないだけマシというくらいに冷え切っていた。

 マリッサは読み書きこそできるが、まともな教育は小学校くらいしか出ていない。

 10代の頃に家畜と引き換えに結婚に出されそうになって家出をし、この街まで流れてきた。

 路上生活をしていたところを見かねた珈琲店の奥さんに声をかけられて、それ以来あの店で働いている。


 古本屋近くに下宿しているのも彼女の知的欲求を安上がりに満たすためだと聞かされている。

 窓辺の書き物机の椅子を引くと、そこに彼女を座らせ、机の上の筆記具を端によせた。

 そうして広がった机の真ん中に今買ってきたものを並べた。


「とりあえずスープだけでも飲んで」


 そういって、部屋の隅の洗面台に伏せられたカップを軽くすすいで持ってきて、寒暖壜の中身を注いだ。


「悪い……ね……、お金……払うから」


 咳混じりにそういって財布でも取ろうとしたのか立ち上がりかけてよろける彼女の肩をとっさに体で支える。それは身を引き寄せるような形になり、ジョナサンは不意にその髪の香りを吸った。

 若い女のような甘い果実に似た匂いはしない。かわりに薬代わりに服用していると思しきハーブの混ざった香りがした。


 両腕を支えて、そっと椅子に座らせる。

「金なんていいから、きちんと食べて、体を温めないと」

 そういって、彼女の肩に毛布をかけた。


 自分の方が年下なのに、子どもの面倒でも見ているような気分になった。

 長く付き合いがあると、しばしばこういう事がある。


 はだけたガウンの襟元からほんのりと見える白い肌着の胸の陰影に一瞬目を奪われて、はたと顔をそらした。

 ……これまでも、ジョナサンはマリッサの中に恋愛対象としての異性を意識する感情が湧く時があった。

 そしてその都度、湧き上がる情動を、理性でおさえつけてきた。

 常連の店の店員と客。いや、異性の長年の友人にして良き相談相手。この関係を壊さないため、また妻のために貞操を守るためだ。


 マリッサは、スープの湯気を吸い込んで軽くむせた。その背中をぽんぽんと撫でながら、床から積み上がった本の層の上に軽く腰掛ける。

 彼女の体を温めたくて、外套を脱いでそっと寄り添う。


 今は性的な感情はない。そんなものよりも、一晩でも早く元気になってほしいという思いが勝っていた。

 何気なく、部屋を見渡す。古本特有のほのかなかび臭さの中で、電球の光だけが目を刺すようにまばゆい。


 ふと、思った。

 このまま彼女は一人でこの部屋で生き続けるのだろうか、と。

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