習作 恋愛離婚旅行
たけすみ
1 相談相手
鉄床街通りと馬車街道の交差点を少し離れたその店のある路地を通るたび、誰もが一瞬息を吸う。芳しい。花とも香水とも異なるにわかにチョコレートに似た香りだ。
その香りの出所はこの区画唯一のカフェである。店で焙煎される珈琲豆の香りが、朝のパン屋の店先のバターの芳香のように通りまであふれているのである。
そこは区画沿いの地域熱供給の蒸気の匂い、煙草、流行りの車のガソリン排気にまみれた街の中にあって、一服の清涼剤のような場所だった。
店は毎朝8時きっかりに開き、夜は夜勤警備員が珈琲を買いに来たのを頃合いに閉まる。
8ヤード四方ほどの狭い店で、軒先席もない。メニューも店内で頼めるのは煎り方を分けただけのサイフォン抽出の珈琲のみ。大きな店のように軽食や酒の類も置いていない。
客の多くは店で煎った豆を買うか、
朝は仕事場で飲むための珈琲を求める客で店先にしばしば列ができるほどだった。
通勤客の次は、近くのアパートメントから焙煎豆を買いに来る夫人達の出入りが増える。
それが引いた午後になると、店はいくぶん落ち着き、焙煎機の音ばかりになる。そして街灯が灯る頃になると店内は仕事帰りに珈琲を楽しむ客で十席足らずの店の席が埋まる。
この店は、主に奥で豆の焙煎を担当する店主、レジと豆の量り売りを担当する妻、抽出と接客係のマリッサ・バトンの3人で切り盛りしている。
ジョナサン・クレインは、毎日仕事終わりにこの店に通っていた。職場は鉄床通り沿いの設計事務所だ。そこで工業デザイナーに師事し補佐の仕事としている。当面独立は考えておらず、このまま社員として経営を学び、師匠を経営面で支え続けようかと思っている。
安定を望む理由は、ジョナサンがこの店に好んで通う理由と一致していた。
マリッサとジョナサンは客と接客係として、また良き相談相手として、10年近い交流がある。年齢はマリッサの方がジョナサンより5つ上である。そして、彼女は30半ばを過ぎても独身を貫いていた。
ジョナサンは寄宿校出身で大学の寮生活までずっと男の中で生きてきた。社会に出るまで女性のことを母親以外何も知らず、月経というものもマリッサから聞いて初めて知ったほどだ。
今の職場に就職してからも、大学時代の仲間が開くパーティなどで独り身の女性と交流を試みるも中々長続きせず、それについて、マリッサによく相談に乗ってもらっていた。
また逆にマリッサが男女交際で悩んだり悲しんだりしたときも、彼にできる範囲で共感を示し、励まし続けてきた。
そんな中で、4年ほど前にマリッサの誘いで『男女平等の参政権を求める行進』に参加した。
そのアフターパーティでエヴァ・メイと知り合った。
エヴァはジョナサンと同い年で名門の女子大学出身、近くの公立学校で教鞭を取っていた。3年の交際の後、2人は結婚した。
求婚の際には自分で設計し時計職人に特注で作らせたオルゴールロケットをエヴァに捧げた。そして新婚旅行は飛行船で海を渡った。
エヴァは結婚しても「子供ができるまでは」と言って家庭には入らず、教師の仕事を続けた。
新婚間もない頃は燃えるように体を求めあったが、近頃はその頻度も減り、また子宝にも恵まれずにいた。
最近は実家に食事に招かれるたびに、ため息をついて励まし合いながら、親元に向かった。
二人とも「そろそろ孫の顔が見たい」と急かされるのに、いい加減疲れていた。
それにエヴァが妊娠すれば、彼女は今の仕事を辞めることになる。経済的には支障はないが、それはエヴァの生き甲斐を奪うことにもつながるように思えて、ジョナサンはなんとなく避けたい気持ちがあった。
――その夜もジョナサンはいつも通りマリッサの店に顔を出した。
秋も半ばを過ぎて、夜になると地域熱供給やセントラルヒーティングのボイラーが稼働する季節になっていた。
だが彼女は不在だった。代わりに店主がカウンターに連なったサイフォンの奥に立ち、夫妻の息子が接客係をしていた。
「あれ、今日は
「風邪だよ。下宿の大家の家から電話があった」
それを聞いて、ジョナサンはそのまま店を出た。
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