二章 二日目 ⑦

 なんだろう、この圧迫感は。確かに美しい寺院だった。修道士も修道女も友愛に満ちていて訪問者に惜しみない慈しみを与えてくれる。歴史の洗礼を受けた建築物は荘厳さの中にも不思議な温かみを秘めていて見る者の心に安寧を与えてくれる。

 にもかかわらず、私が感じるのは重圧と抑圧。なんだろう、この場所は。私は本当にこんなところで生活していたのだろうか。


「天の羽が舞い降りますように」


 西の回廊で若い修道士に声かけられた時、私は思わず耳を塞ぎたくなった。




「……妙だな」


 中庭の池の前まで歩き着き、先頭を進んでいたカイが足を止めた。


「どうしました、閣下?」

「静かすぎる」

「静か……ですか? 寺院ですしそれが普通なのでは?」

「ここの連中からすれば仲間が一人失踪している状態のはずだ。それなのに浮ついたところがまるで感じられん」


 眇めた目でぐるりを囲む回廊を見回すカイ。


「確かに、言われてみれば。しかし、大きな寺院ですし人数も多いですから。失踪に気付いていない者も多いのでは?」

「こんな小さな島の中でか? 閉鎖的な場所での噂の伝達は下界では想像もつかないほど速い。知らない者がいるのは不自然だ。おい、そこのお前!」


 突然、カイの大声が庭中に響き渡った。通りがかった修道女が一人驚いたように振り返り、そのままそそくさと逃げていく。


「どこへ行く! お前だ、お前!」

「か、閣下、どうされました。寺院で大声はお控えください」

「心配するな、話を聞くだけだ。おい、逃げるな! お前のことだ、修道女!」


 ああ、暴風公爵。どうして、怯えているのがわからないのですか。いきりなり見ず知らずの男性から怒鳴られれば、誰だって逃げたくもなるでしょう。


「落ち着いてください、閣下。警備の騎士を呼ばれてしまいます。わかりました、私が相手を見繕って来ますので閣下は、あちら、あちらでお待ち下さい!」


 半ば羽交い絞めのようにしてニコラが主人を連れ去って行く。





 引きずり込まれたのは、回廊を抜けた先。訪問客の順路から外れた小さな裏庭だった。


「くそう! なんだ、あの修道女は。友愛と慈しみの精神はどこいった」


 未だ怒りの収まらない暴風公爵が足元の小石を蹴っ飛ばした。石ころは伸びきった雑草に勢いを殺されてひび割れた石段の間に収まった。

 ……妙にうらびれた場所だった。さっきまで歩いていた順路は古いながらもよく手入れが行き届いていたけれど、ここは雑草が石畳を隠すほど伸びきっており、庭木も長らく手を入れた跡が見られない。普段誰も立ち入らない庭なのだろうか。整備されている個所と言ったら庭の隅に据えられた大きな鳥小屋ぐらいだ。


「あれは神鳥か。あそこだけは妙に手入れがされているな」


 鳥小屋で首を傾げる鳩達をカイは物珍しそうな目で眺めた。

 天羽教は鳥を神の使いと考えている。中でも鳩は教団のシンボルとして崇拝されており、どこの教会でも必ずこうして鳩が飼育されている。


 誘われるように足を踏み出した。身の丈ほどもある大きな鳥小屋だった。金網に触れると、十羽程の鳩達がクルクルと鳴きながら近寄って来る。つがいなのだろう、仲睦まじげに身を寄せ合って互いの嘴を突き合うカップルがいた。


「何か思い出したのか、ルチェラ」

「……いえ」

「では、なぜ泣いている」

「わかりません」


 気が付くと頬に涙が伝っていた。なぜだろう、無垢な鳩の囀りを聞いていると、胸に巻き付いた重い鎖が溶けていくようで止めようもなく涙が溢れ出た。

この寺院に来て初めて、心から神聖だと思えるものに出会えた気がした。


「ありがとうございます、神様」


 心の底からそう思えた。


「ふん、お前がここに来てからずっとふさぎ込んでいたのはわかっていた。その鬱屈が動物を見て晴れたというなら、それは鳩の手柄であって神とやらの加護ではない。礼を言う必要なんてないだろうに」

「……カイ様はどうして、そんなにも神様を憎んでいるのですか?」

「なんだと?」


 一瞬、カイを見上げる私の視線と私を見下ろすカイの視線がぶつかり合い、


「憎んでいるわけではない。ただ、見たこともないもの信じる気になれないだけだ」


 カイは初めて自分から視線を逸らしてそう答えた。


「ルチェラ、お前は神を見たことあるのか」

「わかりません。記憶がありませんので」

「なぜ、記憶がなくなるんだ?」 

「はい?」

「お前は修道院で毎日神に祈っていたんだろう。それなのに、なぜ崩落事故に巻き込まれる? なぜ記憶を奪われて、なぜ暴風侯爵の手の内に落ちる? 本当に神がいるのなら、なぜお前はこんな罰を当てられてなくてはいけないんだ」

「……罰って、カイ様」

「こんな罰を当てられて、お前はなぜ神に感謝ができるんだ」

「あ、あの、カイ様」

「なんだ」

「ご自分が罰である自覚がおありだったんですか?」

「……」


 あ、黙っちゃった。


「別に憎まれ口を叩きたいわけじゃない。とにかく俺は、本当にわからないだけなんだ」


 カイは拗ねたように唇を結ぶと、伸びた庭木の葉っぱをちぎった。その横顔は年よりずっと幼びて見えた。

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