二章 二日目 ⑥





 市街地を出ると馬車はさらにその速度を上げた。


 ウォーカイル大寺院は、ウォーカイル湖に浮かぶ小島に建てられた天羽(あまはね)教最大の宗教施設だ。ラグフォルツ家の治めるフィンクグラブ領とトルガン家の治めるトルガニア領の境界線上に存在し、大聖堂や修道院といった宗教上の要地も内包している。

 修道院では聖皇帝から自治を認められた信者達が厳しい戒律の元、祈りと自給自足の日々を過ごしている。


 と、ここまでは一般常識の範囲として頭に残っているけれど……。


「ルチェラ、そろそろだ。大寺院が見えて来るぞ」


 実際に車窓から見た荘厳な寺院は、ただの石造りの大きな家にしか見えなかった。


「お前の住処だ。何か思い出すことはあるか?」

「……いえ、何も」


 天を指差す尖塔も、薄曇りの下に空色を彩る青い屋根も、湖面に反射する白い外壁も、記憶に訴えるものは何もなかった。

 なのに、この胸のざわつきはなんだろう。寺院が近付くにつれ、徐々に喉が締まっていくかのようだ。


「どうした、どこか痛むのか?」

「いえ。ただ……胸が苦しくて……馬車に酔ったのかもしれません……」

「だから、喋るなと言ったのに。ニコラ、速度を落とせ。窓を開ける。外の空気でも吸っていろ」


 ご親切にありがとうございます、暴風公爵様。

 しかし、原因不明の息苦しさは清々しい湖の空気を肺に入れても収まらず、湖上に架かった石橋を渡るに至って吐き気まで併発し、訪問者入口の前に立つ頃には胸焼けと激しい動機まで引き起こしていた。


「大丈夫ですか、ルチェラさん。顔色が優れませんよ、少し座って休まれますか?」

「平気です。ありがとうございます、ニコラさん」


 嘘です。本当は小一時間ほど休みたいです。でも、一度足を止めてしまうともう中には入れない。そう確信させる何かがこの場所には渦巻いているんです。怖いけれど行かなくちゃ。ここは多分私の家のはずだから。


「行きましょう」


 公爵と執事を引き連れて、私はウォーカイル大寺院の石畳を踏んだ。




「それでは、ごゆっくり。天の羽が舞い降りますように」


 入口で応対に出た老僧は、馬車で乗り付けた騒々しい来訪者を穏やかな笑顔で迎えてくれた。その上、戻るまで馬の世話を引き受けてくれるという。

 天羽教の寺院は、基本的に全ての信者に対して開放されているが、ここまでの申し出はなかなかない。カイは身分を名乗っていないから爵位にひれ伏したわけではなく、純粋な親切心からの言だろう。


「おお。見てください、閣下。あれが有名なウォーカイルの大階段ですよ。私、一度来てみたかったんです」


 どうしました、若執事さん。すっかり観光気分じゃないですか。

 浮足立つニコラを先頭に一列になって大階段を上っていく。歴史の重みを感じさせる古びた石段は、幾万人の信者の往復で中央が窪む形ですり減っていた。


「さすがウォーカイルですね、閣下。階段一つとっても悠久の時間を感じさせます。これ程までに古びた階段は八公爵家にすらありませんよ」

「危険だからだ。俺の領地でこんなにすり減った階段があったら、その日の内に改修させる」

「はあ。わかっていましたけれど、閣下はロマンというか歴史への畏敬というか、そういうものを全くお持ちでないのですね」

「そんなに古いものがいいなら医者など呼ばず呪い師でも呼んでおけ」

「かしこまりました、公爵閣下」


 軽口を叩きながら軽快に階段を上る二人に、すれ違った修道女が笑みと共に声をかけてきた。


「天の羽が舞い降りますように」


 天羽教は慈しみと友愛を信仰の柱とする宗教だ。その信条を体現するように大聖堂でも礼拝堂でも渡り廊下でも、すれ違う度に信者が祈りの言葉を口にする。


「天の羽が舞い降りますように」


 その言葉を聞く度に、私の胸は内臓に鎖を巻き付けられたように重く沈んだ。


「おお、あれが有名な東のテラスですか! あそこからの景色は一級品らしいですよ。どうですか、ルチェラさん。何か思い出しますか? 懐かしさなど感じる所はないですか?」

「……すみません、何も」


 胸を押さえながらそう答えた。

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