二章 二日目 ④
とはいえ、このまま一口も食べずに席を立つのはあまり礼を失している。仕方なく、私は手を合わせて目を閉じた。
「神よ、今日一日の始まりに感謝を捧げます……今日一日を安寧のままに始められることに感謝します……親を、兄弟を、信仰の仲間を見守ってくれますことを感謝します……そして、一日の始まりに糧を与えてくれたこと、その労りに感謝を捧げます……天の羽が降らんことを」
そして、瞼を開くとカイの視線が変わっていた。
微かに目を見開いて驚きの表情でもって私を見ている。
「どうしました?」
「ルチェラ、今の言葉は……」
「食事の前のお祈りですが」
それが何か?
「……ニコラ、どう思う?」
「はい。食前のお祈りは一般的ではありますが、省略して唱えるのが普通で全文を諳んじる人はあまりいません。ルチェラさんの出自が修道女であると考える補強材料になるかと」
「そうだな」
「え……」
私今、祈りの言葉を。
指摘されて初めて、自分が祈りの言葉を暗唱していたことに気が付いた。
それはまるで息をするかのような自然な行為で――。
やっぱり私は神に仕える女なのだろうか。
記憶は何も戻らないけれど、その事実は足元も見えない暗闇の中で一本の蝋燭を与えられたように心強くて、心の中に確かな温もりをもたらした。
「ただ、食事を与えているのは神ではなく俺とコックだがな」
うるさいなぁ、もう。その主張が今いりますか。せっかく感動していたのに。
すっかり冷めた気持ちで食卓を見回した。祈りの言葉はするすると出てきたものの、食欲の方は相変わらず湧いてくる気配はない。
これぐらいなら入るだろうか。そんな思いで小ぶりの果物を一つ口に詰め込むと、
「え、美味しっ」
思わず声がこぼれ出た。
「美味いか、ルチェラ」
そうすると、カイがすっと身を乗り出してくる。
「今度はなんですか?」
「美味いんだな、それは?」
「はあ、美味しいですけど」
どうしたんだろう、急に。
私が手に取ったのは、人差し指と親指で作ったわっかにちょうど収まるくらいの小さな果実。見るからに瑞々しくて子供の唇のように真っ赤だった。我亡くしの影響だろうか、見覚えのある果物ではないけれど、見るからに艶々として丸っこくて、
「可愛いから、なんか手に取っちゃいました」
「……可愛い?」
「はい」
「……そ、そうか」
え、なんで笑うんですか。
いったい何が気に入ったのだろう。カイは満足そうに口の端を持ち上げて同じ果実を齧った。
その笑顔はいつもの皮肉っぽくてどこか戦略的な笑みと違い、親に褒められた子供のように愛らしくて、祈りの言葉で落ち着いたはずの私の心を微かに波立たせた。
「で、アディマ様崩御の公式な発表は出たか?」
「まだです。隣国との停戦協定が明日正式に締結されますから、それまでは待つつもりかと」
「他の公爵に動きは?」
「不明です。ただトルガン公爵家に放ったスパイから軍を動かしつつあるとだけ」
「選択の儀に関する文献捜索は?」
「難航しています。手に入ったものから順に解読は進めていますが」
おー、すごい。本当に食べながら会議をするんですね。
先ほどの言葉通りカイとニコラは会議資料とナイフとフォークを器用に使い分け、業務連絡と朝食の両方を凄まじい速さで終わらせていった。
「閣下、食後のお茶はいかがされますか?」
「くれ。で、何か思い出したか?」
けたたましく食事と会議を終えたカイは、ニコラの注いだ熱いお茶を一口で飲み干して尋ねた。もちろん、私に向かってだ。
「え、あ、いえ……まだ何も」
口の中に残る果肉を急いで飲み下して私は答える。
「一つもか?」
「はい、一つもです」
「全く……やる気あるのか、お前は」
うわ、舌打ちされた。私絶対やる気あるのに。我亡くしの張本人がやる気ないわけないのに。
「よく眠って飯まで食ったというのになぜ思い出さんのだ」
あなたは私の記憶を排泄物か何かだとお考えですか。
「仕方ない。こうなったらあの藪医者の言うことに従うしかないか」
「閣下、昨日来ていただいたお医者様は我が領地フィンクグラブ一の名医と名高い方なのですが」
ナプキンで口元を拭いつつ控えめにニコラが言葉を差し挟む。
「昨日までの評判など知らん。小娘一人治せなかったのだから藪の誹りは免れまいよ」
ああ、私のせいで名医様が悪し様に。ごめんなさい。
「まあ、そんな藪医者と小娘に縋らざるを得ない俺もたかが知れているがな。よし、出かけるぞ」
「かしこまりました」
カイとニコラが同時に席を立った。私はそんな二人をぽかんと見つめ、
「何をしている、ルチェラ。早く立て」
素早くカイに怒られる。
「え? 私も同行するんですか?」
「当り前だろう。どこに何をしに行くと思ってるんだ」
どこに何をしに行くのでしょうか? できれば、ほんの少しでも説明をいただければ幸いです。
「藪医者が言っていただろう。我亡くしの治療法は患者を縁の深い場所に連れて行くことだと。元修道女にとって縁の深い場所など一つしかない」
……私の縁?
「ウォーカイル大寺院に向かう。すぐに準備しろ」
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