二章 二日目 ①

 頭の中に嵐が吹き荒れていた。


 強烈な風は刃となり、私の両目を内側から切り裂くように吹き付ける。

痛みに耐えかねて蹲ると、暴れる風は不意にその勢いを収めた。まるで傷ついた私を労わるように癒すように、そよ風となって鼓膜に囁く。


『お前は頭の中まで俺のものだ』



「絶対嫌ですっっ!」


 寝汗まみれで飛び起きると、私はまた豪華な天井の下にいた。


 今度は、見覚えのある天井だった。

 額の汗を袖で拭い、恐る恐る部屋の中を見回してみる。


 まず目に飛び込んできたのは飾り気のない純白の壁紙……これは、知っている。

 次に薄いブルーのカーテンがかかった大きな窓……これも、知っている。

 ベッドの脇の小さな椅子、知っている。重厚そうなオークの扉も、全身を映せる大きな鏡も、知らないものは一つもない。


 良かった、どうやら記憶は全て無事に残っているようだ。

 ベッドの上で安堵の溜息をついた。昨晩は、寝て起きてまた全て忘れていたらどうしようと考えると、眠ることが怖くて仕方がなかったけれど。


「もう……大丈夫だよね?」


 そこに記憶のスイッチがあるかのようにこめかみを押しこんでみた。


 私の名前は、ルチェラ。異国語で蛙の意味。

 肩書きは、元修道女。

 聖皇帝アディマ様が亡くなった石橋崩落事故の目撃者。

 ただ今、暴風公爵ことカイ・ラグフォルツ公爵の邸宅に監禁中。

 暴風公爵の無実の証拠を思い出すまで解放はされない。


「よしよし、ちゃんと覚えてる。これで一安心ね」


 よくよく考えればどれ一つとして安心できる情報はなかったけれど、とにかくもう記憶を失う恐れはなさそうだ。

 素足のまま毛足の深い絨毯を踏みしめた。小鳥の囀りに誘われるまま窓のカーテンを払ってみる。真新しい朝日が洪水のように降り注いだ。目の奥に痛みを感じて顔をそむけると、鏡の中で眉をしかめる痩せた女と目が合った。


「……ねえ、あなたは誰なの?」


 一晩経ってもしっくりこない顔だった。これが本当に私なのだろうか。

 改めて見ると酷い顔をしている。顔色は土気色だし、頬はげっそりとこけているし、肌はがさがさで張りがない。おまけに頭には竜巻が通り過ぎたような寝癖が乗っかっている。


「どう贔屓目に見ても、今しがた墓場から這い出てきたばかりの死体よね」


 こんな死に顔を、あの美しい公爵様に晒していたのか。

 だけじゃない。体に触られ、剣まで向けられて、あまつさえ抱きすくめられたうえに――。


『お前は頭の中まで俺のものだ』


 ……悪寒が背筋を駆け上がった。


 逃げなくちゃ。本能的に確信した。こんなところにいてはいけない。


 カイ・ラグフォルツ。傲慢で尊大で毒舌家で自己中心的な暴風公爵。

 先人達が大切に積み上げてきた慣例や慣習を破壊し、誰の命令も聞かず、神の言葉にも耳を貸さない。人を人とも思わず、口から出てくるのは罵詈雑言と無理難題ばかり……などなど悪評は枚挙に暇がないほどだ。


 行く当てもないし相変わらず記憶が戻る兆しもないけれど、このまま暴風公爵の手の内にいるよりは安全なはずだ。わたしが本当に修道女だというのなら、どこかの教会に逃げ込めばきっと保護してもらえるはず。見たところ、この部屋には見張りもいないし今ならいける。神よ、お力をお貸しください。


 そう決断して窓に取りついた瞬間、


「おはようございます。入ってもいいですか?」


 許可を求める言葉のはずなのに、私の返事を待つことなく扉が開いた。


「ルチェラさん、お加減は……悪くないようですね。もう立っても平気なんですか?」

「は、はい。お陰様で!」


 咄嗟に窓枠にかけた右足を下して振り返ると、ラグフォルツ家の若執事がもう一つの朝日のような笑顔を輝かせて戸口に立っていた。

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