一章 一日目 ⑤

「繰り返すが、俺は聖皇帝を殺してなどいない。決してない。ましてや手抜き工事などもっての外だ。つまり、この状況を狙って引き起こした者がいると考えられる――だが、俺がいくら訴えたところで耳を貸す人間はいないだろう。他の公爵の協力も期待できない。奴らからすれば、次期皇帝の座を争うライバルは一人でも少ない方がいいだろうからな。だから俺には、俺の無実を証明する証拠がいる。そこでお前だ、ルチェラ」

「は、はい」

「お前はあの夜、ローゼ川の畔に倒れていた。崩れた石橋のすぐ真下でだ。お前は何かを見たはずだ」 

「私が……ですか?」


 聞き返さないと決めていたけれど、ついつい言葉を返してしまった。カイはそんな私を正面から見据えて言葉を続ける。


「思い出せ。お前はそこで何を見た」


 カイの目は不思議な目だ。見つめられると目が離せなくなる。吸い込まれそうで怖いのに、もっと見つめていたくなる。


「俺には時間がない。選択の儀は聖皇帝崩御が公表された後、遅滞なく開催されるという。それまでに証拠がいるんだ。何がなんでも思い出せ」

「わ、私は……」


 まただ。また目の奥に痛みが走った。なんだろう、この痛みは。熱さと重みを伴う、刺すような痛み。それはどんどん大きくなり、


「痛いっ、痛いです」


 耐え切れず布団で目頭を覆った。

 途端に耳を轟音が襲う。目を開けられない闇の中で音の波が荒れ狂う。これは何かが崩れる音。大きな何かが水を打つ音。そして――。


「どうした、ルチェラ。何か思い出したのか?」

「わかりません。でも、聞こえます。悲鳴が……聞こえます」

「誰だ。その悲鳴を上げているのは」

「わからない……一人じゃありません……いくつもの悲鳴が重なって」


 また目の奥に痛みが走った。

 誰かに無理やり瞼を開かれて針で刺されるような……いや違う。痛みは中からだ。頭の奥に発生した尖りが、瞳を突き破って飛び出ようとするように……。


 耐え切れず、布団に突っ伏した。目を閉じた私の肩に誰かの手が添えられる。大きくて熱い掌。


「閣下、ここまでにしましょう。これ以上は負担が大きすぎます」


 ニコラの深刻そうな声が耳に届いた。悲鳴が、何かが崩れる音が、徐々に遠ざかっていく。同期するように目の奥の痛みが引いて行った。


「そうだな。これで十分だ」

「カイ様……」


 目を開くと、目の前にカイの顔があった。

 鼓動が跳ね上がる。漆黒の瞳に一瞬にして心が絡めとられる。美しい。こんな時であってすら、高鳴る心臓の節操なさが恨めしかった。


「よくやったぞ、ルチェラ。やはり、お前は何かを見たのだ。記憶を奪うほどの強烈な何かを。今はそれがわかっただけでも十分だ」


 今は……?


「ニコラ、明日からの予定は全て破棄だ。お前も忙しくなるぞ、覚悟しろ」

「かしこまりました」

「お、お待ちください、カイ様!」


 何かが望まぬ方向に動き出している。本能的にそう感じて公爵を呼び止めた。


「どうした、ルチェラ。また何か思い出したか?」

「いえ、何も。そうではなくて、私はもう帰していただけるのでしょうか?」

「帰る?」

「は、はい」

「……何をバカなことを言っている?」


 発された言葉よりも表情の方が雄弁にその心情を物語っていた。カイは私のこめかみに指を添えて薄い唇を開く。


「お前が帰れるはずがないだろう」

「なぜですか?」

「二度も言わせるな。お前は大事な切り札だからだ。お前の頭の中から俺の無実を示す証拠が転がり出てくるまで、お前をここで監禁する」

「そんな、横暴です!」

「横暴かどうかは公爵である俺が決めることだ」

「そんなわけがないでしょう! なんのための法律ですか!」

「ほう、公爵の俺に法を語るか。何の法に抵触してるか言ってみろ、全て捻じ曲げてやる」

「わ、私は修道女なのですよね? であれば、私の身は天の御神のもののはずです。帰さなければ天罰が下りますよ!」

「神などいない」


 今です、神様! 天罰をお急ぎください! こんな不敬が許されていいのですか。


「万一神がいたとしても、もう関係はないのだ」

「え……?」


 不敵な笑みを漏らしたカイは、先ほど剣を抜いた時と同じ速さで右手を振るい、私の体を抱き寄せた。


「な、何を?」

「ルチェラ」

「いや、離して」

「ルチェラ!」

「なんですか!」


 目の前にカイの顔があった。傍若無人で不敬で不遜で、見とれるほど美しいカイの顔。


「そう、お前はルチェラだ。洗礼名を捨て俺が与えた名前を受け入れたお前は、もう神のものではない」

「え?」

「その空っぽの頭に刻み込め。今日からお前は、頭の中まで俺のものだ」

「……そ、そんな」

「喜べ」


 また無茶な命令を下して、カイはにやりと口の端を持ち上げた。


 

 息のかかる近さで目の当たりにしたその笑顔は息も止まる程の美しさで、私は言うべき言葉の全てを失った。

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