一章 一日目 ③
「二度は言わんぞ。俺に剣を汚させるな。お前は何を隠している? 記憶をなくしたお前が、なぜ俺の名前にあれほど過剰に反応した?」
ごくりとニコラが唾を飲む音が聞こえた気がした。動脈に添えられた刃にじりじりと力が籠る。でも、これだけは言ってはいけない――人として。
「言え!」
「たとえ記憶をなくしても蛇とかは怖いのでっ! それと同じ現象だと思いますっ!」
ああ、言ってしまった。元気一杯に。
「ん……蛇?」
はい、蛇です。あと蜘蛛とか百足とかトカゲとかも怖いです、バリバリ。
「――ふっ」
誰かの吹き出す音が聞こえた。
「ニコラ」
「私ではありません」
「……ニコラ」
「違います」
「では、顔を上げてみろ」
「お、お許しください」
「ニコラ!」
私の喉を圧迫していた剣が、顔を背けて肩を震わせるニコラの方へと翻った。
ああ、いけない。今度は天使様が殺されてしまう。
「恐れながらよろしいでしょうか、公爵」
堪らずといったふうに老医師が二人に割って入った。
「我亡くしというのは、何も覚えていたことを全て忘れるというものではございません。己に関する記憶だけが失われ、一般常識等は残るのが普通とされております。ですので、この娘が公爵のことを覚えていても何も不思議なことはないかと」
「一般常識だと?」
そんな老医師をカイはぎろりと音が出るほど睨めつける。
「じゃあ何か、このカイ・ラグフォルツが蛇蝎の如く嫌われるのはこの世の理だとでも言うつもりか」
「あ、いえ、決してそういうわけでは」
「か、か、閣下。お、お、落ち着いて……ま、また民に……き、き、嫌われます。あははは」
「お前はまずそのにやけ面を何とかしろ!」
どうしよう、私の一言で場が荒れている。だから言うのを躊躇ったのに。縋るように窓を見ると、無責任にも蛇は姿を消していた。
「くそ、もういい。世話になったな、謝礼を受け取って帰れ。このことは他言無用だぞ」
色々と面倒くさくなったのだろうか。カイはぶっきらぼうに老医師に言い捨てると、剣を収めて疲れたように椅子に腰を下ろした。
額を押さえた指の隙間で黒い瞳が僅かに輝く。それはまるで、白昼突然に星空の小窓が開いたようで、場違いにもほんの少しだけ心が震えた。
「いいだろう、女。お前の言い分を信じてやる」
部屋を出て行った老医師の足音が完全に聞こえなくなるのを待って、カイはため息混じりにそう言った。
「言い分……?」
「お前が我亡くしであることを信じてやると言ったんだ、喜べ」
「あ、ありがとうございます」
……で、いいのだろうか。
「あ、あの、カイ様」
「なんだ?」
「ということは、私もここから帰してくれるということなのでしょうか?」
であれば、本当に喜ばしいのですが。
記憶もないし帰る当てもないけれど、それでももうこれ以上この部屋にはいたくない。
暴風公爵・カイ・ラグフォルツ。今のところはその二つ名に恥じぬ暴れようだった。
信仰心の篤いマルジョッタ皇国において神をも恐れぬ存在と忌み嫌われ、公爵という公の存在でありながら傍若無人、唯我独尊を貫く不良貴族。
……まさか、こんなに美しい方だったなんて。てっきり、獣のような大男だとばかり思っていたのに。睫毛が長い。怖いはずなのに宇宙を凝縮したような黒い瞳を見つめずにはいられない。
「なんだ、貴族の顔を不躾に睨めつけおって。さては俺の美貌に目を奪われたか、この不良修道女め」
ふ、不良と言われた! 暴風公爵に不良と! これだから貴人は嫌いです。もう帰りたい。
「冗談はさて置きだ。残念だろうが、お前はまだ帰すわけにはいかん」
「なぜですか」
「お前が、俺の立場を救う切り札になる可能性があるからだ」
カイの真っ黒な目に妖しい艶が混じった気がした。
「切り札……私がですか?」
「正確に言うとお前の記憶がだ。今から忘れん坊のお前の記憶を戻すために、俺が直々に状況を説明してやろう。国家の存亡にかかわる重大な情報だ。心して聞け」
「こ、国家の存亡?」
そんな話をなぜ、私に? そもそも喋っていいのですか?
「お待ち下さい、閣下。話すおつもりですか? 相手は修道女ですよ。情報を明かす際は慎重に身元を精査せよとのお達しが――」
ああ、やっぱりだめなんですね。ニコラが血相変えて制しようとするが、
「知ったことが。どうせ遅かれ早かれ漏れることだ。おい、不良修道女。今から話すことは国家機密だ。絶対に漏らすな。質問もなしだ。聞き返すことも許さん。破れば舌を焼いて肥料にしてやる。わかったな?」
「結構です。お聞かせいただかなくても結構でございます。帰してください、今すぐに」
「もう遅い。話はすでに始まっている」
まだ始まっていないはずですが! まだ間に合うと思いますが!
「その前に名前がないと不便だな。いつまでも不良修道女不良修道女と呼ぶのも長ったらしくて面倒だ」
『不良』をつけるからでございます。『修道女』だけであればそれなりに呼び易うございます。
「よし、俺が名付け親になってやろう」
そう言うと、公爵は切れ長の美しい目を一瞬宙に逃がし、
「ルチェラだ。お前は今日から思い出すまでその名で通せ」
「ルチェラ……ですか?」
「気に入れ」
そんな。聞いたことのないご命令を。
「異国語で蛙という意味だ」
何か、蛇呼ばわりしたことを根に持たれている気がします。
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