一章 一日目 ②



「これは、我亡(われな)くしですね」


 診察を終えた老医師は、カイの方を振り返ってそう告げた。


「我亡くし……ですか」


 腕を組んだまま何も言わない主人に代わってニコラが言葉を返す。


「はい、頭部に外因性の強いショックを受けた影響でそれまでの記憶を喪失してしまうという、あれです。ご存知でしょう」

「記憶の喪失……そうですね、物語などでは聞いたことがあるのですが」

「非常に稀有ではありますが、実例はいくつかございます。もっとも私も診るのは初めてですが」

「治療法はあるのでしょうか?」

「こればかりはなんとも。何せあまりにも症例が少ないもので。本人と縁の深い場所へ連れて行けば回復するという話も聞いたことがありますが、伝承の域を出ないとしか」

「そうですか」


 ……まるでお芝居みたいなやりとりだな。


 医師とニコラのやり取りを、私はどこか他人事のように眺めていた。

 我亡くし。私も聞いたことくらいならいくらでもある。それこそ物語や神話のレベルでだけれど。不思議なものだ。自分のことは名前ですら思い出せないのに、我亡しという言葉だけはわかるなんて。


「そうだ、これはどうでしょう。お嬢さん、これを見て何か思い出すことはありますか? あなたが倒れていた時に着ていらした物なのですが」


 そう言って、ニコラは生乾きの修道服を寄越してきた。分厚くて粗末な生地だった。手には馴染むけれど記憶に訴えかけるものは何もない。

 黙って首を振ると、次にニコラは一冊の書物を手渡してきた。分厚い。どこにもタイトルの印字はなく、黒い表紙に白い羽の模様が刻まれている。


 中を開けなくてもわかる。マルジョッタ皇国の国教、天羽教の聖書だ。覚えは確かにあるけれど、記憶を刺激するものは何もない。


 首を振ってそれを返すと、 


「もういい。いい加減にしろ」


 その手を振り払うようにして、それまでずっと黙っていたカイが立ち上がった。


「こんな茶番に付き合っていられるか。おい、女。見え透いた嘘はもうやめろ。正直に本当のことを言え」

「嘘だなんて。私はずっと正直にお話ししています」

「まだ言うか」


 ひゅんと空気が鳴って、前髪が微かに揺れた。瞬きをしたのはほんの僅か。

 まさにその一瞬で白刃が目の前に迫っていた。いつ抜いたのか、全くわからなかった。ただ、気が付けば鼻先に剣の切っ先が突きつけられていた。


 そう認識した瞬間、冷や汗がどっと額から噴き出した。


「閣下、落ち着いてください」

「俺は冷静だ。冷静にこの女の嘘を見抜いている」

「だ、だから嘘など申していません。いったいどうして」

「ほう、この状況で芝居を続けるか。豪気な修道女がいたもんだ」

「芝居じゃないんです!」

「ではなぜ、俺の二つ名を知っている?」

「え……?」


 カイの漆黒の瞳がギラリと閃いた。

「もし記憶がないというなら、なぜ俺の二つ名を知っているのかと聞いている」

「二つ名ですか……?」

「お前は目を覚まして俺の名前を聞いた時、確かに言ったな。『暴風公爵』と。それはそれは嫌そうな顔をして。お前は俺を知っている。知っていて知らないふりをしているだけだ。あの歪な表情が何よりの証拠だ」

「そ、それは……」

「それは、なんだ?」

「……言えません」

「言わねば殺す」


 剣先がジャキリと音を立てて翻り、首筋にヒタリと冷たい刃が当った。

 息が止まる。闇を凝縮したようなカイの瞳から氷のような殺気が迸った。

 脅しでないことは尋ねるまでもなくわかった。でも、言えない。これだけは。靄のかかった頭でもわかる。これだけは言ってはいけない。

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