一章 一日目 ①


「寝るなあっ!」


 

 ああ、手放したのに。

 どうやら彼の側には私を手放すつもりはないらしい。再びベッドに倒れこもうとする私の両肩を大きな掌が捕まえた。


「丸々三日寝こけてまだ寝る気か! 一刻の猶予もならんというのにこれ以上俺の時間を無駄にするな!」


 そして、揺らすこと揺らすこと。

「寝るな! 起きろ! 起きろ!」

「お、起きました。起きました。もう寝ません。起きました」

「起きろと言っているだろう!」


 ああ、すごい。この人、全然話を聞いていただけない。絶対天使様じゃない。


「何ごとですか、閣下。うわぁ、何をなさっているんですか」


 騒ぎを聞きつけてくれたのだろうか、乱暴に部屋の扉が開かれた。


「正気ですか、閣下。相手は怪我人ですよ。落ち着いて。一度座りましょう。閣下、どうぞこちらへ」


 飛び込んで来た青年は、怒り狂うカイをなだめすかして椅子に座らせると、


「気が付かれたのですね、お嬢さん。良かったです」


 振り返りざまに笑顔を光らせてそう言った。

 ああ、こっちだ。天使様はこっちだった。見ず知らずの私を気遣う優しさも穏やかな物腰もさることながら、腰まで届く金色の髪の毛といい青い瞳といい、物語の挿絵から抜け出してきたかのようだ。


「申し遅れました。私はニコラと申します。カイ様の下で執事を務めております。気を失っている間随分とうなされていましたが、どこか痛むところはございますか?」

「痛む……?」


 そう問われ、改めて自分の体に意識を向けてみると、思い出したように体のあちこちが痛みを訴え始めた。幸い耐え切れないようなものは一つもないけれど、少し怖かった。


 なぜ、痛むのだろう。

 何の怪我なんだろう。よく見ると手足にいくつかの治療の跡もある。


「一応一通りの治療は済ませてあります。失礼とは思いましたが着替えのほうも。何せ全身ずぶ濡れでしたので」


 ずぶ濡れ? なぜだ。なぜ私はそんなことに……。


「覚えていませんか? あなたはローゼ川の畔で気を失っていたところを閣下に発見され救出されたのですよ」


 ローゼ川……川? どこだろう、私はそんなところで何を?


「運よく見つけられはしたが、あんな場所夜中に修道女が一人いるところじゃない。お前、何をしていたんだ」


 椅子の上で行儀悪く足を組みながらカイが尋ねる。


 何をしていたのか……私は……。それに修道女って、私のことか? 私は……。

 頭の中にまた靄がかかり始める。目の奥にズキリと痛みが走った。


「お前の身に何があった? お前は何を見たんだ?」


 私は……何を……。


「どうしました? やはりどこか痛みますか?」

「待て、ニコラ」


 従者の言葉を手で制してカイは質問を続ける。


「そう言えばまだ名前を聞いていなかったな。女、名前は何という」

「名前……」


 また目の奥に痛みが走る。

 私は……私は……。


「わかりません」

「何?」

「……わかりません」

「どういうことだ? どの質問に答えた? わかるように答えろ」

「全てです」

「……」

「何も、わかりません」


 私は何者なのだろう。何をして、なぜここにいるんだろう。

 何もわからない。 


 カイが訝しむように眉を顰め、組んだ足をゆっくりと下ろした。


 その肩の向こうから、見知らぬ女が私の顔を覗き込んでいる。茶色の髪の毛を肩まで伸ばした女だった。青白い顔、痩せぎすの体。私が右手で右の頬を触れば、女は左手で左の頬に触れる。私が左手を上げれば女も右手を上げた。


 恐怖が油のように体を覆い、じわりと皮膚にしみ込んだ。

 ああ、そんな。ああ、神様。

 これは鏡だ。私と鏡の中の見知らぬ女が同時に目を見開いた。


 ……あなたは、誰?



 私はこの時初めて、自分の記憶が全て抜け落ちていることに気が付いた。

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