1日目:寝かしつけ

 閉じられたドアの外側から、廊下を歩く足音がする。


 コンコンと木製のドアをノックする音。続いて、ドアノブを回して開ける音。

 ドアが軋みながら開く。ヒロインが部屋に入ってくる。


「準備はできているようだね」


 食器が触れ合う音がする。ヒロインが、お盆に乗ったマグカップを持ってきたようだ。


「勉強がてら、君に美味しいココアをいれてもらおうと思うんだけど。

 教えてもらってない? そりゃそうさ。今から教えるんだから」


 椅子を引き、リスナーの左隣に着席。


「ココアは眠りを助けるんだ。だから、こんな夜更けにはぴったりなんだよ。

 え? 勉強じゃなくて、寝かしつけようとしてないかって?

 ふふ。ばれた?」

 

 机の真ん中に、食器が乗せられたお盆を置く。リスナーの前方から、食器が触れ合う音がする。


「まずは、マグカップにココアパウダーを入れて……」


 マグカップにココアパウダーを入れる音。


「そこに、牛乳を入れる」


 マグカップに牛乳を注ぎ入れる音。


「冷たい牛乳だと十分に混ざらないから、温める魔法をかけてみようか」

「初めての魔法だから、緊張してる?

 大丈夫さ。最初だから、私が手伝ってあげるよ。緊張するなら、深呼吸するといい」


 ヒロインが声を潜める。内緒話をするくらいの音量で。


「鼻から大きく息を吸って……

 口からゆっくりと息を吐いて……」


 四秒息を吸い、三秒無音、六秒かけて息を吐き出す。


「お腹を膨らませるように息を吸って……

 細く長く、息を吐いて……」


 四秒息を吸い、三秒無音、六秒かけて息を吐き出す。

 

「鼻から吸って……

 口から吐いて……」


 四秒息を吸い、三秒無音、六秒かけて息を吐き出す。


 呼吸音が四回続く。


「ほら、これで緊張がほぐれただろう?

 さて、始めようか」 


 リスナーの耳元に近づき、囁き始める。


「マグカップを両手で包むようにして持つんだ。

 想像してごらん」


 幼子に言い聞かせるように、リスナーの耳元でゆっくりと囁く。

 

「マグカップが、じんわりと温かくなっていく。

 両手の指先も、じんわりと温かくなっていく。

 ぬるま湯に指先をつけた時のように。

 ぽかぽか、ぽかぽか。温かくなっていく。

 ……うん、いいね。上手にできてるよ」


 ヒロインの声が、右側に移動する。


「いい感じに温まったら、スプーンで混ぜるんだ。

 もちろん魔法でね。手は使わずに」

「目を閉じて、スプーンを頭に思い浮かべて」


 スプーンがマグカップに入れられる。

 ポチャンという音。食器が触れ合う音がする。


「想像した?」

「次は、頭の中でスプーンを回して、牛乳とココアを混ぜる」

「まずは、右回り。くる、くる、くる」


 スプーンで牛乳を混ぜるイメージ。カチャカチャと食器が触れ合う音がする。

 

 音が止まる。

 ヒロインの声が左側に移動する。


「次は、左回り。くる、くる、くる」


 スプーンで牛乳を混ぜるイメージ。カチャカチャと食器が触れ合う音がする。

 音が止まる。


 ヒロインの声が右から聞こえる。

「右に回して」


 食器が触れ合う音がする。

 しばらく音が鳴り続ける。


 左から。

「左に回して」


 右から。

「右」


 左から。

「左」


 右から。

「くーるくる」


 後ろから。

「くーるくる」


 左から。

「くーるくる」


 前から。

「くーるくーる」


「ふふふ。目が回りそうだね」


 食器が触れ合う音が止む。


「白いミルクにココアが溶けて、じんわり塗りつぶされていく……

 君の思考も、ミルクの中に溶けていく……」


「そのココア、一口ちょうだい」


 右側から、ヒロインがココアを一口飲み込む音が聞こえる。


「ん……ちょっと苦いかも。砂糖、足そうか」


 グラニュー糖の個包装を開ける音。

 サラサラと音を立てながら、砂糖がココアに足されていく。


「眠いだろう? ココアを混ぜるの、交代するよ」


「もう一度、スプーンでかき混ぜて……」


 ヒロインがスプーンでココアをかき混ぜる。食器が触れ合う音とヒロインの囁き声が、時計回りにリスナーの周りを回り始める。


「くーるくる、ぐーるぐる。

 くーるくる、ぐーるぐる。

 君の溶けた思考も、頭の中で回り始める。

 くーるくる、ぐーるぐる。

 くーるくる、ぐーるぐる」


 食器の音がフェードアウトして消えていく。

 音の回転が止まり、左側の耳元から、ヒロインがクスクス笑う声がする。

 コトリと音を立てながら、机にマグカップを置く。

 

 ヒロインが、普段の明るく優しい調子で、リスナーにココアを飲むよう促す。


「はい。美味しいココアの出来上がり。

 冷めないうちに飲んでごらん」


 一転して、リスナーの正面に顔を近付け、甘い声で囁きかける。 


「甘い甘いココアのおかげで、君の体の中から、じんわりと、ポカポカと、温か~くなっていく」


 リスナーが布団に横たわり、シーツを被せられる。

 両耳に衣擦れの音。シーツの向こうからヒロインの声が聞こえる。


「もう眠いだろうから、今日はゆっくりおやすみ。

 ……寝るまでここにいて欲しい?

 いい歳して、一人で寝れないのかい? 仕方ないな、全く……」


 椅子を引きずる音がする。

 ベッドの近くにヒロインがやってくる。


「じゃあ、ぽんぽんってしてあげようか

 ……子供扱いじゃないよ。深く眠るための魔法をかけてあげるのさ」


 右耳のそばで、布団を軽くゆっくりぽんぽんと叩く。

 暫く音が続く。


 ヒロインが、ゆっくりと囁き始める。


「まずは、右手から。

 想像してごらん。

 右手から、君の力を抜いていく。右手に残った力を吸い取って、空っぽにしていくんだ。

 右手の指先が、空っぽになっていく。力がなくなって、ずーんと重くなっていく。

 肘……二の腕……力がなくなっていく。ずーんと重くなっていく。

 肩からも、力がなくなっていく。ずーんと重くなっていく」


 叩く音が止まる。

 布団の表面を撫でる音。頭の上側を通って、左側で止まる。

 左耳のそばで布団を叩く。

 暫く音が続く。


「次は、左手。

 左手から、君の力を抜いていく。左手に残った力を吸い取って、空っぽにしていく。

 左手の指先が、空っぽになっていく。力がなくなって、ずーんと重くなっていく。

 肘……二の腕……力がなくなっていく。ずーんと重くなっていく。

 肩からも、力がなくなっていく。ずーんと重くなっていく」


 布団を叩く音が止まる。

 布団を撫でる音がする。リスナーの胸元で止まる。

 胸元で布団を叩く。


「次は両足。

 つま先から、力を抜いていく。つま先が空っぽになって、ずーんと重くなっていく。

 ふくらはぎ……両膝……力がなくなっていく。ずーんと重くなっていく。

 太もも……腰も……力がなくなっていく。ずーんと重くなっていく」


「身体中から力が抜けて、空っぽになっていく……

 頭の中からも、考える力を吸い取って……空っぽになっていく……身体中が重~くなっていく……ずーんと、重~く、なっていく……」


 布団を叩く音が止まる。


「体はもう動かせない。

 眠いんだから、当然だね。

 もう、な~んにも考えられない」


 五秒間無言。

 耳元でベッドが軋む音がする。リスナーの耳元で、ヒロインが囁きかける。


「最後の仕上げ。

 今からカウントダウンをしよう。

 10から数を数え下ろして、ゼロと言ったら、眠りに落ちてしまう。

 気持ち良~く、眠ってしまう」


「10、9、8」

(ヒロインが欠伸をして、囁く)

「とっても眠いね。今にも眠りに落ちてしまいそう」


「7、6、

 頭の中に、モヤがかかって、意識はぼ~んやりとしてくる」


「5、4、

 心配や不安は、ぜ~んぶ溶けて、消えてしまう」


「3、2、

 思考がぼやけて、君はな~んにも考えられなくなる」


「1、

 君の眠りは、君だけの、至福の時間」

 

「誰にも邪魔されない、幸せの時間」



「ゼロ」

「さあ、今日はおやすみ。

 また明日……」

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