一日目 放浪 <二>
「おまたせー!」
門をくぐって玄関ではなく、庭を伝って縁側に声をかける。が、縁側に少女の姿は無かった。薄々わかってはいたが、知らない人間の家にあがるような子ではなかったようだ。いや、私の家ではないのだけど。
想定していたとはいえ、抑えきれない落胆を胸に玄関へ向かった。だから、戸を開けた瞬間に目に入って来た見知らぬブーツには、頬ずりしたくなるほど感謝していた。靴を脱ぎ捨てて、休憩部屋まで走った。
「お茶持ってきたよ!」
言いながら襖を開けると、少女は穏やかな顔で眠っていた。咄嗟に口を噤む。声と足音で起こしてしまったかと思ったが、驚くほど深く眠っている。元々体操座りで待っていたのだろうか。膝を抱え込むような姿勢で、そのまま横になっている。もしかしたら、汗が冷えて少し寒いのかもしれない。
確か、隣の部屋の押し入れにはまだ寝具が残っていたはず。タオルケットをかけるくらいなら、良識の範疇として認めてくれるはずだ。気味悪がられたなら、大人しく畳に額を叩きつければいい。言うまでもなく私の、だ。押し入れの障子を開けてみると、柔らかそうな羽毛布団があった。顔をうずめたい衝動に駆られたが、場違いにもほどがある。
ふかふかの誘惑に耐えながら、その下にあるタオルケットを引き出した。布団が雪崩れる、なんてありきたりなミスは侵さない。経験があれば、人間は成長できる生き物なのだ。
小さく丸まっている少女にかけてあげ、取り敢えず自然と起きるまでは待つことにした。その間、少女が起きたらどんな話をしようか考えていた。やはり祖母の話をしたほうがいいだろうか。いや、最初はもっと親しみやすい内容のほうがいいだろうか。流行りの漫画とか。だが、こんな若い子と話が合うだろうか。自慢ではないが、私の好みは若干古臭い。
はっ。今咄嗟に、少女のことを若い、と捉えてしまった。駄目だ。心が老いていると体も衰えてしまう。でも、実際私が高校生ぐらいのときに今のような好みだったかと言われれば、全く違った気がする。ちゃんと流行の先頭を追っていた記憶がある。ちゃんと追えていたかはさておき、その反動で大学に上がってからは流行りを気にすることをやめてしまった。
じゃあやっぱり祖母のことしかない。と言っても、私も祖母のことについて語れることはそう多くない。私にとっての祖母は祖母だけで、それが普通なのだ。わざわざ語るようなことがあるか、と考えてみてもとんと浮かばない。ただ、変わり者ではあった。中学校の国語教諭だったこともあってか、時代の変化にちゃんと付いて来ていた。パソコンやらスマホやらも平然と使っていたし、流行りのアニメは毎週観ていた。
そして最も祖母の特異さを印象付けた出来事は、仏教から無神教者へとシフトチェンジだろう。これには親戚一同、極楽に行きかけるほど驚いた。別の宗教を信仰するようになるのは聞いたことがあるが、急に仏や神を信じなくなるなど前代未聞だった。祖母によれば、そんな存在がいなくとも世界は存在できるから、ということらしい。色々と議論を呼びそうな、というか実際生んだこの発言は、私の祖母のイメージの根幹にある。常に知識をアップデートし、新しい常識を当たり前のように自分のものにする。私は祖母の四分の一の生きていないが、既に祖母の凄さが身に染みてわかった。一度信じたことは、そう簡単に捨てることはできない。
「あのー」
「うおっ、はよう」
「すいません私、寝ちゃってて」
「いいんだよ。疲れてたんでしょ?そうそう、お茶持ってきたから飲んで」
「えっと、じゃあ、いただきます」
混乱はあったようだが、一先ずお茶は飲んでくれた。そして、この瞬間を私は狙っていた。
「飲みながら聞いてね。もし、お嬢ちゃんに事情を話す気があるならゆっくりでいいから、飲み終わった後自己紹介して。で、もし何も言いたくないなら、好きなだけ休んでから帰って。あと、すいませんとごめんなさいは発言禁止で」
お嬢ちゃんという呼び方、想像では大人なお姉さんだったのに、口に出してみると気持ちの悪いおじさんみたいになってしまった。それでも少女はこちらの指示に従ってくれるようで、私が話しきるまで冷たいお茶を喉に流し込んでいた。
「えっと、まず、お茶、ありがとうございました。私は、
「いえいえ。ゆうかちゃん、でいいかな?ゆうかちゃんは、祖母とはどんな?」
「私は、ふみさんが先生をしていた学校の生徒だったんです。ふみさんが講演をしに学校へ来てた時に話すことがあって」
「そうだったんだ。えっ、じゃあ今中学生?」
「いえ、高校生です。ふみさんと話したのはもう四年前のことなので」
「なるほど。じゃあ、今日はどうして祖母に会いにここまで?というかどうして住所とか」
「えっと、それは、説明するのが少しやっかいなんですけど」
「どんな内容でも気にせず言ってよ。大丈夫。私はあくまで赤の他人。大胆にいっちゃえ」
「わ、かりました。私はふみさんが講演に来てた日、死のうとしてたんです。それをふみさんが止めてくれました。その時に住所も教えてもらったんです。成人するまで耐えてみて、まだ死にたかったらうちに来い、と言ってくれました。それで今に至るって感じです」
「うん。言ってることはわかったよ。つまり、具体的な目的は無いって認識で合ってる?」
「そうですね。そういうことなのかも、しれません」
「なるほど。ふむ。ちょっと色々考えさせてね。お茶飲んだりテレビ観たりしてて」
「えっと、はい。わかりました」
「あと、ため口でいいよ。敬語でもいいし。でも、私はゆうかちゃんに尊敬されるようなことしてないから、少なくとも敬意はいらない」
最初から感じていたことだ。この子、敬語に慣れていない。無用な緊張をさせる必要はない。そう確信はしていたが、勘違いであることも考えて、どちらも選べるようにした。だが、私の勘は想像以上にいい働きをしてくれたようだ。
「わかった。いやー、真面目にするのって疲れるね」
「でしょ。まあちょっと待っててね」
「りょーう」
さて、恐らく本来の性格に戻ったのであろう彼女のことはさておき、私はこれからの行動を考えねばならない。ゆうかちゃんは、祖母の言葉だけを頼りにここまで来た。多分その後のことは考えていない。
祖母がどうするつもりだったのか、私に知る方法はない。もしかしたら、何も考えずに少女に希望を見せたかっただけなのかもしれない。だとしたら、それは成功している。ゆうかちゃんは今日まで生きてきたのだから。
私に、なにかできることはあるのか。そもそもなにか、すべきなのか。私がゆうかちゃんに何を言おうと、何をしようと、ゆうかちゃんを苦しめるだけなのではないか。祖母なら必ず止めた。そう行動する必要がある、と確信できるだけの経験を持っているから。そして、私も立ち止まらざるをえない、そういう経験を持っている。
先程までの態度が嘘だったかのように、ゆったりと寛いでいる。普通の高校生、誰が見てもそんな印象を受けるだろう。きっとゆうかちゃんにも、他人には見えない部分がある。だとしても、
「よし。決めた。ゆうかちゃん、何日くらいなら大丈夫?」
「ん?大丈夫っていうのは?」
「ここにいれるのか、ってこと。ねえ、祖母がゆうかちゃんに何を言おうとしたか、私にはわからない。だからさ、最後にやりたいこと、全部やっていかない?赤の他人として、ゆうかちゃんを救おうとした人の孫として、手伝わせてよ」
「なに、それ。止めないんだね」
「意味ないでしょ?止めたら止まってくれる?」
「わかった風なのはあれだけど、本当にわかってるからなー」
「どう?これがお姉さんの力だよ」
「すごいすごい。で、やりたいこと、か。考えてなかったなー。やりたくないことばっかで」
「今思い浮かばなくてもいい。でも、今際の際で思いついたら嫌じゃない?じっくり考えるのにも時間はいるでしょ」
「確かにね。ちなみに、なんだけどさ。ここで首括るのは」
「流石にやめて、って言いたいけど、まあ目を瞑ろうじゃないか」
「やめよ。その感じだと冗談になんない」
「確かに。でも、事実いい場所だからね。この家は」
「なら尚更だめなんじゃないの?」
「鋭いね。首の縄も切れちゃうかも」
「何言ってんの?まあ、ありがたく滞在させてもらおうかな。お姉さんなら、面倒くさいことになんないだろうし」
「それは良かった」
「ていうかさ、お姉さん、名前は?」
「おっと名乗り遅れました。わたくし、
「じゃあ、あーさん、だね」
「”や”ぐらい発音したらいいじゃん」
「私のことも”ゆうかちゃん”じゃ長いでしょ。”ゆうか”でいいよ」
「えっ、もしかしてちゃん付けは古かったりする?」
「古くないと思うよ。最近のおじさんおばさんも使ってるし」
「なるほどよくわかった。少しの間よろしく、ゆうか」
「お世話になるよ。あーさん」
お互いに挨拶をすると、気まずい沈黙が流れた。思わず笑ってしまう。気まずさを誤魔化す笑いじゃない。嬉しいんだ。偶然、だけじゃない。お互いの意思で、お互いを認め合えた。
「じゃあさ、取り敢えず買い物行こうよ。着替え一応あるけどさ、泊まるには色々足りない」
「私のおさがりは嫌?」
「デザインによるかな」
「自信ないなー。まあ時間も時間だし、今日は私の家でご飯食べていきなよ。親は適当に誤魔化すから」
「大丈夫?そんな簡単に」
「大丈夫。うちの親は察しがいいんだ。なにか思っても無駄な詮索はしてこない」
「ふうん。恵まれてるね」
「でもそのおかげで美味しい冷やし中華が食べられるんだよ?」
「ありがてえ」
エアコンを切って、母の待つ家へ向かう。いつも通りに出ようとすると、ゆうかに止められた。鍵を閉めてないことがどうしても気になるらしい。田舎ではこれが普通と言うと、鍵を渡すよう求められた。やはり生まれが違うと肌に沁み込んだ常識の質も違うようだ。
日は沈み、遠くの山の隙間から夕陽が漏れている。反対側の空は夜の色をしていた。昼の蒸し暑さは疾うに消え、風が微かな残り香も攫っていく。ゆうかは、ひたすら正面の空を眺めていた。その眼は橙色を反射して、温かく輝いている。
「なに?」
「なんでもない。夕日は珍しい?」
「そんなはずないんだけどね。こんなに鮮やかなのは初めて」
「これだけでも来た意味あったんじゃない?」
「さあね。死ぬまでわかんない」
夜が近い。そんな匂いがした。
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