首吊り人形の冒険
そらふびと
一日目 放浪 <一>
「この鍵一つしかないから。失くさないでね」
「わかった」
「暑いんだから、程々でいいんだからね」
「うん。まあ気が済むまでやるよ」
「そう。電気とかはまだ止めてないからね」
「了解。いってきます」
「いってらっしゃい」
砂を挽くようように戸を開くと、重く湿った熱気が流れ込んできた。都会と比べると涼しい方ではあるのだが、このあたりは特に、独特の匂いと湿度がある。それがただの熱以上に肺に積もり、夏を実感させた。
玄関から外へ出ると、くぐもっていた蝉の声が鮮明になる。日差しが直接肌を刺し、乾いた土の固い感触。皮膚の下で汗が出そうな感触が蠢き、既にうんざりしていた。
目的地は四軒向こうにある祖母の家。祖父が癌で死んでから二年、春先に風邪を拗らせてそのまま肺炎で死んでしまった。こう言うのもなんだが祖父が死んだおかげで色々準備をしておけたらしく、葬式の手配や遺言状などに不備はなく、一切のトラブルなく別れを告げることができた。
祖母は全ての遺産や物品を家族へ分けるよう指示していたが、その中で唯一の頼み事が家のことだった。具体的には一年間はそのままにしておいてほしい、というものだった。その意図は親戚の誰もわからなかったが、そうお金もかかることではないので反故にすることもないという判断を下した。
その結果、大学の夏季休暇で帰って来た私が掃除に駆り出された、というわけだ。他の親戚はほとんど県外で、自然と私たち一家が抜擢された。
さて、四軒しか離れていない祖母宅だが、それは現実から目を逸らした虚飾にすぎないことを思い出していた。田舎の四軒というのは距離換算でざっと一キロはある。しかも、ぼろぼろのアスファルトで舗装された登り坂だ。
田んぼを見るといくらか清涼感を感じないでもないが、あまり近づきすぎると鼻が痛くなる。
無心で登り続けると、見覚えのある家が見えてきた。十年前は毎日のようにこの距離を歩いていたと考えると、地球温暖化の深刻さが身に沁みる。私は断じて衰えていない。体重も増えていない。
なんとか戸口まで辿り着き、息を整えながらズボンのポケットを探った。所々錆びている、昔ながらの鍵を差し込む。が、鍵穴が錆び始めているようで、中々回らない。何十年も鍵は開け放していたからだろうか。仕方なく左手も動員して力を込めると、黒板を引っ搔くような音を出して鍵が開いた。
鍵に比べて随分軽い戸を開けると、空間そのものから祖母の匂いがした。そして真っ先に、正面に鎮座する木彫りの象が目に入る。像ではなく、象。名前は「なうまん」。なんとなく一礼。
この家は昔ながらの平屋を、数年前にバリアフリーへとリフォームした。そのため、黒く日焼けした木材と、真新しい檜が混ざってアンバランスな床に見える。玄関の段差の左半分がなだらかな坂になっており、残った右側の段に腰かけて靴を脱いだ。
小学生の時も同じように、この段差に座って靴を脱いでいた覚えがある。靴を脱いで揃えるというだけの時間がもったいなくて、靴と靴下の間に指を入れると同時に、家の奥へと挨拶を叫んでいた。
今は急ぐ理由もなければ、声を張り上げる相手も、ここにはいない。泥で汚れてもいいように買ったスニーカーを、紐が伸びないように脱いで石張りの角に置く。誰が来るわけでもないけど、なんとなく一番端に。
数年ぶりに廊下へと足を踏み入れた。木材だからこその弾力と軋む音は、他愛もない記憶を途切れ途切れに思い出させてくれた。常に漆で光っていた床は、薄く積もった埃で曇ってしまっている。一歩、沈む、音、一歩、沈む、音。私を起点に一つのリズムとなって、この家全体が音楽を奏でている。
あの頃は床の軋む音なんて気づかなかった。いや、というよりも意識を向けようとしなかった。いつでも聞こえていたものを認識していなかった。でも、その視野の狭さがそのまま、あの頃の楽しさだったように思う。
この家では会話がない分口寂しく、もごもごと感傷に浸ってしまった。あまりだらだらしていると熱中症になってしまう。流石に外よりは涼しいが、それでも現代の夏に打ち勝つような性能はしていない。
廊下の突き当り、右側の襖を開けると大きな卓袱台、テレビ、エアコン、座布団、等々が置いてある。言うなれば、多機能ダイニングである。この部屋は食事は勿論、遊びの主な会場でもあったし、親戚が集まれば皆ここで過ごす。ここの座布団は何度も私の枕になったし、冬は卓袱台がこたつになって、その先は言うまでもない。
祖母が冬にはもう入院していたためか、この部屋にはまだ冬の名残がある。こたつは仕舞っているようだが、部屋の隅にはまだ新しい電気ストーブがあり、その上には電気ケトルが置いてある。ストーブの上に置いておく必要は一切ないのだが、この位置でなければ落ち着かないのだろう。祖母はそういう人だった。
テレビ台の中にあったエアコンのリモコンで室内を低温にして、休憩地点を作る。さて、あくまで今日の目的はこの家の掃除と、ある程度の物品の片づけだ。まだ気にならない程度ではあるが、少しずつ埃は積もっていく。目的はなんであれ、祖母の遺志に従うのであればこの家は綺麗な状態で保っておくべきだ。積んである座布団から一枚抜き取りながら、強く思った。
油断していた。夏の暑さがこの体に与える疲労を甘く見ていた。座布団に座って一息つこうとテレビをつけ、少し荒い画質の昼ドラを眺めていただけだった。気が付くと座布団を更に四枚持ってきて、その上で眠ってしまっていた。咄嗟に、入口から見て左上の小さな壁掛け時計に目が行った。何度も繰り返した動きを未だに、体が覚えてくれていたようだ。
さて、肝心の時間は三時三十分。四時であればまだ諦めがついたかもしれないが、現実は三時三十分。真面目にやればある程度は綺麗にできてしまいそうなのがまた癪だ。
まずは体を起こして背骨を伸ばす。欠伸を出すと、少しだけ瞼が軽くなった。テレビを切って座布団と別れを告げる。こいつらも、掃除の最後で布団達と共に洗濯してあげよう。それだけの仕事をしてくれた。
部屋を出て廊下を玄関の方へ歩いていく。掃除道具が入っているのは、「なうまん」の隣の壁に埋め込んである倉庫だ。一見扉とはわからないようになっているが、この家にある隠し扉は全て覚えている。かくれんぼの賜物だ。
壁の一部を押し込むと、その部分に溝があり、そのまま取っ手になっている。開けようと力を込めるが、何かが引っ掛かっている感触がある。全体重をかけると少しの隙間ができ、あとちょっと、と思った瞬間に扉が開いた。一切の躊躇なく引いていたため、突然の解放は想定できていなかった。この尾骨の痛みを教訓にしようと思う。
倉庫の中には種々の箒と塵取り、バケツ、その中に雑草を抜くときに使うであろう道具が入っていた。さて、この倉庫内の道具だけでこの広大な家を掃除せねばならない。勇しんで取り出した道具は、当然ながら掃除機である。箒やらなんやらがあるとは言ったが、掃除機が無いなどとは言っていない。
とはいえ、箒と雑巾だけで掃除するのが無謀なのは当然として、掃除機を使ってもかなり困難であることも明らかだ。そもそもの話、この家の床面積の大半を占めるのは畳である。詳しい知識はなくとも、なんとなく畳に掃除機をかけるのは抵抗がある。自らの無知を自覚する私は、大人しくスマホで調べることにした。が、すぐにこの選択が誤りであったことを知る。
畳の掃除方法の検索で真っ先に出てくる内容。それは、定期的な日陰干し。あの休憩スペースだけでも十畳はあった。もしかしたらもっと広いかもしれない。記憶が正しければ、同じ広さの部屋があと三つはある。それらの畳を全て外して日陰で干す?正気の沙汰ではない。
そう思いつつも悩んでいるのは、できることはやりきるという覚悟を持ってここへ来ているからだ。正気の沙汰ではないが、これもまた不可能ではない。帰省期間は二週間。高校時代の友人と遊びに行く予定を加味しても、この家の掃除には一週間かけても問題ない。誰か応援を呼びたいところだが、手伝える人間がいるなら私が帰ってくる前に終わらせているはずなのだ。大丈夫。一枚ずつ外に出していけば案外すぐだ。
なんて甘い考えは数分後、無残に散ることとなる。まずは休憩部屋と襖で仕切られた部屋に狙いを定め、庭に直接繋がる障子を開いて経路を確保。念のため、倉庫の隅に置いてあった蚊取り線香を焚いておく。縁側に畳を置けるスペースを作り、後は持っていくだけ。ここまでわずか二十分。
畳屋さんのホームぺージにあったように、隙間にドライバーを突っ込んで少し持ち上げてみる。この時点で、想像よりもずっしりとした感触があった。てこを使って指が入る程度に持ち上げ、片方の手を挟み込む。そのまま持ち上げ、持ち上げ、ることはできなかった。手で畳を支えるためにゆっくりと下ろしていくと、この重さの物を持ち上げるビジョンが見えなかった。イメージを大事にするアスリート気質なため、本能に従って手を引き抜いた。ドライバーも抜いてみると少し曲がっていた。
無理だ。難しいとか、工夫が足りないとか、そういったレベルのものじゃない。明確な不可能が横たわっていた。だが、むしろ少しほっとしていた。不可能なら仕方ない。私は最善を尽くした、胸を張ってそう言えるわけだ。
「すいませーん!どなたかいらしゃいますー?かー?」
蚊取り線香を休憩部屋の方へ持っていこうとしていたら、玄関の方から声が聞こえた。
「はーい」
明らかに若い声。もしかしたら知り合いが、母から話を聞いて駆けつけてくれたのかもしれない。淡い期待を持ちつつ入口の戸を開けた。
「こんにちは。あの、ふみさんいますか?」
ふみ。祖母の名前だ。
「祖母は、あっ。私、ふみの孫なんですけど、祖母はこの春他界しました。えっと、祖母の知り合い、なんですよね」
「そう、でしたか。失礼しました」
「ちょっと待って。少しだけ上がっていかない?」
「いえ、ご迷惑になりますから」
「祖母に用があったんでしょ?なにか手伝えること、あるかもしれないし」
「でも」
「じゃあ中まで入らなくていいから。縁側でお茶だけでも飲んでかない?」
「じゃあ、少しだけ」
私も玄関から外に出て、少女を縁側に座らせる。一声かけて縁側から中へ入った。
あまり引き留めるべきではなかったのかもしれない。いつもなら大人しく帰ってもらっていただろう。だが、祖母を訪ねてきたらしい少女は明らかにまだ高校生か中学生、という風貌だ。それに、半そでのシャツから覗いた腕は尋常でないほど日焼けしている。顔色も明らかに良くない。
取り敢えず飲み物が必要だ。冷蔵庫からなにか
当然ながら、冷蔵庫の中には何も入っていなかった。母に持たされた水筒はあるが、ぬるいお茶が少し入っているだけだ。
「ごめん、飲み物無かったから取ってくるね。ちょっと待ってて。暑かったら部屋に入ってていいよ。エアコンついてるから」
一息に説明して、彼女が何か言う前に走った。さっきは気にならなかったが、外は随分と涼しくなり始めていた。昼前までなかった、心地良い風が吹いている。それにしても、今日の私はかなりカロリー消費が激しい。おかげでこってりアイスを気兼ねなく食べられるというものだ。
歩くときの半分の時間を使って家に着いた。
「ただいまー」
靴を脱いで真っすぐキッチンに向かう。急ぎはするが、家の中まで走らなくてもいいだろう。
「おかえり。お疲れ様」
「本当に。でももうひと頑張りしてくる」
「今日はいいんじゃない?」
「別件。ペットボトルのお茶とかある?」
「冷えてないのならあるけど」
「じゃいいや。水筒もらうね」
「なにかあったの?」
「まあ気にしないでよ。戻るのはもうちょっと後だから」
「はいはい。晩御飯は冷やし中華ね」
「いってきます」
後ろ手に戸を閉め、スニーカーに踵を押し込んだ。左手には水筒、右手には一抹の期待感があった。それが上手く形になるのはもっと後のことなのだがこの時は既にあった、と言っていいだろう。
夏は、私たちを一歩前進させてくれるんだ。
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