2-8 浮気ではない
白薔薇と黒薔薇の騎士団長が本気でぶつかり合った結果、演習場に大穴が空いた。
正直何を言っているのかよくわからないが、実際起きたのだから仕方がない。
(演習場って、大会の会場より作りが甘いのね…)
なんて、数日前の大会会場との違いを噛み締めることくらいしかできなかった。
(あのときも威力がすごかったけど、今日もすごかった。なんかすごかった)
あまりの事態にリリスの語彙力は死んでいた。
ついでに、判断力も低下していた。
(いつもの癖で、ブライアンに送って貰うつもりで本部の前に来ちゃった…)
しかも一人で。
一緒に来ていたソフィラとは、迎えがあるからと馬車の前で別れた。
ビーハニー伯爵家の護衛と従者に保護されたソフィラは本当にいいのかと困った顔で確認してくれたのに、リリスはすっかりブライアンの送迎に慣れていてブライアンと一緒に帰るつもりだった。
今回、ブライアンのサクラではなくオニキスの応援で来ていたのに、お小遣いをもらっていた感覚でうっかりブライアンの出待ちをしてしまった。
しかし出てくるわけがない。なぜなら仕事があるから。
(そもそもサクラをしていたときだって、仕事があるのにわざわざ送り迎えをしていたのよね。更に今日は演習場を壊しちゃったんだもの。きっとたくさん叱られているわ)
つまり、オニキスも暫く出てこないということだ。
なぜなら喧嘩両成敗だから。
どっちにも叱責が飛ぶはず。
(困ったわ。どうやって帰ろう)
騎士団の本部前で、リリスは腕を組んでうーんと唸った。
一人でふらふらしているリリスだが、流石に一人で街をふらふらしたことはない。
ブライアンの応援に一人で来たのだって、ブライアンの送迎があってのことだ。応援中は周囲に人が居るので、実質一人になることはほぼない。
今回はソフィラと一緒だったので、伯爵家がついでに保護してくれていた。だというのにうっかりいつもの調子でここまで来た。
これは叱られる。
(叱られたくないけど、こればっかりは私が悪いから、言い訳できないわ…)
これは覚悟を決めて、叱られるしかない。
叱られる覚悟はできたが、その前に無事子爵家へ辿り着かねばならない。
(歩いて帰るほど道に詳しくないし、乗合馬車ってやつを利用すべきよね。でもそれってどこから乗れるのかしら。あっち? それともこっち?)
うろうろ視線を彷徨わせ、取り敢えず広場へ小さい歩幅でちまちま向かう。
時間帯は昼なので、正直屋台の誘惑が強い。しかし前回オニキスと屋台デートをしたので、なんとか余裕を持って誘惑を切り抜けることができた。大変危なかった。肉を噛みきれないことを知っていなければふらふら吸い寄せられていたに違いない。
(ふふん。今の私はひと味違うんだから。そう簡単に香りの誘惑には屈しないわ。中々癖にある味だったけど、自分の力で敵わない相手には挑むべきでないのよ)
そう、黒薔薇騎士団長様とかに挑むのは無謀だ。
尚、挑むつもりがなくても向こうから来たときは必死に白旗を振るしかない。
白旗を振ってもそんなの関係ねぇと距離を詰められ、甘やかに攻め落とされるばかりのリリスは、強敵に挑んではいけないと日々実感する毎日を送っている。
(…オニキス様、今日は来るかしら…)
なんとなくこっちかなぁと乗合馬車を求めて歩きながら、リリスは今頃怒られているであろうオニキスを思った。
婚約者となってからも、オニキスは朝の貢ぎ物をやめなかった。早朝にプレゼントを持ってホワイトホース子爵家を訪れ、夜にも変わりはなかったかと訪れる。騎士団への通勤路にホワイトホース家が面しているからと、来すぎである。
朝と夜に来るのだから、自然と食事を共にするようになっていた。
先日はクリスティアンとカーラに遠慮していたが、二人がブライアンの家に行ったと知ったのでそろそろまた来るかもしれない。リリスはちょっとソワソワした。
(なんだかんだあれからずっと会っていたから、会えない日に違和感を覚えちゃうわ。見詰められたら逃げたくなるのに、見詰められないと物足りないなんて…)
私ってば我が儘ね。
なんて思いながら顔を上げたリリスの視界に、一つの屋台が飛び込んできた。
若いお姉さんがくるくると、甘い香りのする生地を丸い鉄板の上で薄焼きにしている。あっという間に焼き上がった薄い生地。そこへ生クリームとグレープフルーツを盛り付けて…。
その上からたっぷり、たっぷり…綺麗に艶かな黄金の液体が降り注ぎ。
手際よく、くるくると巻かれた。
「蜂蜜ホイップグレープクレープおまちどおさま~」
「わーい」
(は、はちみつくれーぷぅ!!)
嬉しげに受け取る子供を見ながら、リリスに雷のような衝撃が走る。思わずゴクリと喉が鳴った。
こんなところで新しい誘惑が。
しょっぱいを食べたら甘いが食べたくなる無限ループのあの感覚。いや、食べてないけど。まだ何も食べてはいないけれど!
(だ、だめよ! 乗合馬車がいくらするかわからないのに手持ちを減らしちゃだめよ!)
そう思うのだが、お姉さんが手際よく調理するクレープから目が離せない。人気商品らしい蜂蜜ホイップを作るたび、黄金の液体から香る芳醇な甘さが物理的に誘惑してくる。
(だ、だめよ…私にはオニキス様が!)
蜂蜜とオニキスを並べて耐えるのはおかしい。
オニキスの蜂蜜色の瞳に見詰められるたび、蜂蜜のような愛情を降り注がれている気持ちになるが実際には見詰めているだけなので、オニキスと蜂蜜は関係ない。
ないのだが、蜂蜜を見るとオニキスを思い出してしまうリリス。
なんならちょっと浮気しているようなやましい気持ちになってきた。
(そ、そうよオニキス様だってよそ見をしないで欲しいって言っていたもの。他の蜂蜜に浮気はだめだわ…!)
リリスはグッと我慢してクレープの屋台から視線を外した。美味しそうな甘い香りが漂っていたが、我慢である。浮気はいけないことだ。
オニキスもまさか蜂蜜で浮気を考えられるとは思っていなかっただろう。
「すいません」
ここから離れなければ! と一歩踏み出したとき、聞き覚えのある声がクレープ屋から響いた。
「ここからここまでの商品を一つずつください」
(そんな注文聞いたことがない!)
リリスは驚いて振り返った。
振り返った先にはふわふわの銀髪と、輝く金色の髪。
「リスちゃん一口ちょうだぁ~い」
「うん。気になったやつあげる」
「バナナのは絶対欲しぃなぁ~」
のんびりした、けれど淡々とした青年の声。ちょっと間延びした、きゃっきゃと楽しげな女性の声。
聞き覚えのある声に、リリスは咄嗟に振り返って思わず叫んだ。
「クリスとカーラさん!」
呼ばれた二人はきょとんとした顔で、リリスを振り返った。
ちなみにたったいま大漁のクレープを注文したクリスティアンの手には、数種類の串焼きも装備されていた。
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