番外編 インテリ眼鏡同士の恋模様 1


「どうしてこうなったのかしら…」


 パタパタと駆けていく銀髪の少女を見送り、ニコルは火照った熱を吐き出すように嘆息した。

 寝台の隣に備えられていた椅子に腰掛けて、そっと眠る男性を覗き込む。覗き込む動作すら、思わず慎重になる美しい男性が静かに眠っていた。

 うぐ、と思わず呻く。


「反則ですよアントン様。何ですかその顔…」


 視線を外せなくなったニコルは、年下の同僚に思わず大人げないクレームを投げつける。


「何が『私は兄弟の中でも劣っている』ですか。とんでもなく優れた頭脳だけでなく、顔までよかったんですか。これで運動神経がよかったら、天に何処までも愛された男になっていましたよ」


 ある意味既に寵愛を受けている顔をしているが…普段の様子から、こんな美しい男だと思っていなかった。

 何時もよれっとしていて、銀の髪はボサボサ。目元が見えないほど分厚い眼鏡。衣服はしっかり着込んでいるのに、姿勢の所為か疲労からか、いつも草臥れて見えた。

 だけど口を開けばハキハキと、淀みなく計算式が飛び出してくる。過去の数字だけではない。未来を予想して組み立てられる計算は、式が成り立つように値を動かすのが楽しいと笑う様子はとても純粋だった。


「まさかアタナが、この大会に出ているとは思っても見ませんでした…」


 未だ混乱が収まらないニコルは、眠るアントンに語りかける言葉が止まらない。

 完全に独り言だが、声に出さないとこの混乱が収まらない。


「だってあなたは本当に運動神経が壊滅的で。体力だって私よりなくて」


 資料を運ぼうとして、手から滑った書類に足を取られてすっころんだり。中々捕まらない上司を探して部屋を往復しただけで疲労困憊になったり。


「そんなアナタが、私への愛を叫ぶ、なんて…」


 …混乱を落ち着かせようと口に出していたけれど、口に出したらより明確に実感が湧いてきた。

 じわじわと、ニコルの頬が熱くなる。ああ、頬といわず、身体全体が熱い。

 駄目だこれは。

 あまりの熱に、ニコルは思わずひっつめた髪を解いて頭を抱えた。ほどけた髪が頬を滑り、肩に流れる。ずれた眼鏡の位置を調整しながら、苦しげに呻いた。


「本気だったの…」


 ニコルが愛の言葉を聞いたのは、実は、初めてじゃない。


 ニコルがアントンと出会ったのは、数年前。ニコルがまだ既婚者だった頃。

 夫は幼馴染みだった。同じ村出身で、仕事を求めて王都へやって来た時期も同じ。

 そのまま惰性で結婚して、気付いたら夫はニコルの稼いだ金でギャンブルをするような男になっていた。


(私が甘かったわ…!)


 そろそろ適齢期だからって焦って結婚するんじゃなかった。周囲が既婚者になっていくからって、自分まで急ぐ必要はなかった。今ならそう言えるが、そのときは幼馴染みを逃せば一生結婚できないと思い込んでしまっていた。

 だってニコルの髪はよくある亜麻色で、目だって鳶色と全体的に地味だ。顔だって平凡で、それなのに表情が乏しく厳しそうで怖いと言われていた。

 幼馴染み以外の男性と距離を詰めたこともなく、なんとなく敬遠されているのもわかっていたから、幼馴染みに軽い調子で結婚しようと言われて頷いてしまった。


 結婚自体は、したかった。子供を生んで、母親になって、自分の家族が欲しかった。

 ニコルの父は土砂崩れで。母は流行病で早くに亡くなり、幼いニコルは幼馴染みの家に助けられて育っていた。幼馴染みとの結婚も、そんな延長線で決まったことだった。


(だからって、相手の借金を私が払うのは納得がいかないわ!)


 拒否したいが結婚したのだから一蓮托生だと、運命共同体だと夫が煩いため、ニコルは必死に働いた。

 幸い登用試験に合格し、官吏になる夢を叶えた所だったので給金は高かった。高かったからこそ、夫に当てにされてしまったともいう。


 それからニコルは、新婚にもかかわらず全く家に帰れない日々が続いた。

 すべてはうっかり結婚した夫の負責が原因だったが、そのおかげで結果を残しトントン拍子に出世した。ほぼ夫を放置した状態で、ニコルは仕事に生きがいを見出していた。

 そのまま憧れの財務課に異動となり。


 出会ったのがアントンだ。


 財務課の仕事は、財務戦略の検討・立案。資金調達。余剰資金の運用。

 経理が作成した決裁書を元に、過去の利益を参考にしながら計画を立てる。

 関わるのは国家資金。過去を見ながら未来のために組み立てられる計画は、彼の緻密な計算で支えられていた。彼は過去の情報をすべて頭の中に収めていた。


「このあたりは距離÷時間=速度舗装された道が少ない

「ええと、そうですね。このあたりはピグレット伯爵の領地ですが、あそこは財政難で手が回っていないはず」

「その解決も含めて距離÷速度=時間陸路より水路にしよう

「小さいですが港は確かに…ですが船は?」

「商船を持つ商会と提携したら速度×時間=距離陸路とほぼ同じだよ」


 正直何を言っているのか、まず解読するところから始まるのは苦痛だった。

 でもそれは、人見知りで焦って言葉が数式になっていただけだった。


「すまないね。慣れない人と話すときは五秒詰まると時間が勿体なくなって、わかりやすい方程式言葉が飛び出すんだ。ただ私のわかりやすいは常人にとって暗号らしく、それを頭の中で分解するのにまた三秒使って…」


 仕事ができる人なのに対人に弱く、可愛い男性だなぁなどと和むようになっていた。


「秒は待てますので、一旦落ち着いてからゆっくりお話しましょう。アントン様の気にする秒数は常人ならば全く気になりませんよ」

「そうかな…? そうだよいいな」


 子爵家の次男だという彼は、ニコルの知っている貴族らしく横柄で尊大なところが全く無い。仕事に直向きで、対人に困っていて、ニコルが手助けすると安堵したように息を吐く。


「ナンバリングさんが暗算対応してくれて助かった。私はどうも、数字時間が気になってしまうから」

「それも人見知り故、でしょうね。私より先輩なんですから、大きく構えてくださっていいんですよ」

「だが、私の方が値が低い年下だろう?」

「えっ」


 身分ではなく年齢を気にしていた?

 というか、年齢の話などしたことがなかったのに、何故。


「…? 肉体年齢と精神年齢からおしはかれる。骨格と肌の状態、手の…」

「測らないで下さい!」


 なんと言う目を持っているのだこの人は!


 ちなみに、ニコルはアントンの四つ年上だった。


 とにかく、慣れてきて会話もしやすくなり、仕事も捗っていった。

 その頃には更に仕事が楽しくなってきて、とうに新婚と呼べる期間が過ぎていた。

 夫となった幼馴染みとほぼ顔を合わせることなく、仕事に邁進する日々。家に帰っても夫と時間が合わず、顔を合わせる方が珍しい。彼が何か言いかけても、仕事だからと相手にしなかった。実際忙しかったし、夫の愚痴を聞く時間すら惜しい。ニコルは結婚していたが、籍を入れただけの関係だった。

 これはニコルも悪かったと思う。


 しかしそもそもの関係が破綻していると決定づけたのは、束になった領収書が職場に郵送されてきたことだった。

 ニコルの名前で書かれた領収書は、心当たりのない物ばかり。

 夫が購入したすべてがニコルの支払いになっていて、溜まりに溜まったその支払いを、家では説明する暇もないからと職場に送りつけてきたのだ。


 夫がこさえた借金も含め、ここ数年で溜めに溜めた未払いを、ニコルに。


(あいつ…一蓮托生とかいいながら自分で払う気がないじゃない!)


 借金どころか日用品まで、ニコルの名前で領収書を貰ってきている。しかもその金すら金貸しから借りた物で、ニコルが支払う金額は利子が付いてどんどん上乗せされている。

 完全に金目当ての結婚だ。

 ニコルは焦っていたとはいえ考えなしだった過去の自分を往復ビンタした。


(…というかこれ、結婚している意味ある? ないわよね)


 好き合っているなら頑張れたが、惰性で結婚したニコルは、結婚三年で離婚を決意した。

 むしろ三年も放置した、自分の惰性を恥じた。

 本当に、家で顔も合わせなかったので、結婚している意識がとことん低かった。

 結婚ってっこんなものかと、かなり間違った認識をしていた。


 結婚したにもかかわらず相手を尊重しなかった、仕事ばかりで全く顧みなかったニコルの行動にも問題があったので、一方的な相手の有責にはならなかった。

 しかし悪質さで言えば支払いのすべてを押しつける夫側に合ったので、慰謝料など支払うことなく離婚は成立した。領収書の問題も、結婚していたが夫婦間に信頼関係も何もなかったことが証明され、支払いは夫がする事になった。

 夫は抵抗したが、ニコルが思ったよりスムーズに離婚することができた。異動前の上司の夫が弁護士で、手助けして貰えた事が大きい。


「ニコルちゃんは一生懸命働いていたからね。愛があるなら見守ろうかと思ったけど、全部押しつけられているなら話が違うから」

「すみません、ありがとうございます」


 手助けしてくれた人たちにお礼をしてまわる。一番頼りになった異動前の上司は、ニコルを娘のように可愛がってくれた人だ。


「いいのよぉ。でもこれに懲りたら惰性で結婚なんかしちゃ駄目よ。ニコルちゃんまだ若いんだから」

「いいえ、私ももう三十二で…」


 言いながら、次の結婚を考えるには年を取り過ぎたなと思う。

 そもそも結婚したいと思いながら、諦めて過ごしていた弊害で、長いこと一人だった。


「元夫にお前と結婚してくれるやつは俺以外いないなんて言われて、なら仕方がないかなんて思っちゃって…あいつしかいないなら、いっそ結婚は諦めた方がよかったです」


 結婚をして家族が欲しかった。

 でも、結婚しなくちゃいけないと自分を追い詰めていたかもしれない。

 結婚してくれる相手を探すのではなく、自分と相性のよい相手を探さなくてはならなかったのに。

 肩を落とすニコルに、かつての上司は苦笑しながら背中を叩いてくれた。


「諦めてもね、意外とその気がないときに、相手が見付かったりする物よ」


 それも難しいだろうなと、思っていた。

 思っていたのに。

 ある日、ニコルは…アントンから、三本の白薔薇を贈られた。


「君が好き」


 なんともストレートな、言葉と共に。


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