第13話 君が悪い


「何故…?」


 リリスの言葉に、オニキスはきょとんと目を丸くした。鋭い目が丸くなると、途端に幼くなって心臓がぎゅんっと締め付けられる。

 やめて突然のギャップ萌を見せつけないで。軽率に心臓が止まっちゃう。


 しかしすぐにうっすら細められた瞳は、仕方のない子だといわんばかりにリリスを見ていた。


「君は、俺を見ていただろう」

「みっ…て、ました」


 見ていた。じっくり見ていた。

 素敵だなぁと思いながら、ただスケッチしていただけだ。今も抱えるスケッチブックに、たくさんの黒薔薇が咲いている。

 見ていたけど…見ていた、だけだ。


「…やはり君は、とても純粋で残酷な悪戯をしていたようだ」

「イヤそんなことしていませんが!?」


 突然の冤罪に赤かった顔が青くなる。

 なんだそれ心当たりがない。リリスが一体どんな悪戯をしたというのか。


「いいや、悪い子だ。無邪気で何気ない君の言動が、俺をこんなに惑わせた」

「イヤおかしい! 私は何もしてないし、私みたいに平凡な子が何かしてもオニキス様みたいなお方が惑わされるはずがっ」

「平凡? 不思議なことを言う」


 オニキスはゆっくりとリリスに手を伸ばした。

 節くれ立った男性的な大きい手。剣を握る男の人の手。伸ばされた手の甲が、リリスの輪郭をなぞった。


「この透き通る肌も、星屑のように煌めく銀の髪も、湖面を写したような碧眼も…俺を虜にしているのに」


 微かな隙間を空けて、触れることなく――触れていると錯覚するほど、ゆっくり。


「君は愛らしい」

「ふぇえ…?」


 ガクガク足が震えた。二人の間にある薔薇の花束分の距離しか空白がない。今にもくしゃりと潰れてしまいそうな花束がまさかの鉄壁の盾。リリスは震えた。蜂蜜の過剰摂取で呼吸困難になりながら震えた。


「…君が悪い」


 オニキスがゆっくり立ち上がる。


「思わせぶりな態度で俺を誑かして、俺を堕落させて、君以外目に入らなくさせたのは君なのに」


 視線があったまま、ゆっくりと位置が上がっていく。オニキスが真っ直ぐ立ち上がれば、リリスは彼の影の中にいた。


「君が悪い」


 罪の果実が自然とリリスの手の平に落ちてきた。それが必然だと彼は告げる。


「だから責任をとって、君は俺以外を見てはいけないし、描いてはいけない」


 視線を逸らしてはならない。

 その瞬間、狼に食い付かれてしまうから。


「俺を求めて」


 ――罪の果実に、そんなたっぷり、蜂蜜を掛けないで。


(…ずるい)


 イヤ本当にずるい。言い方も何もかもがずるい。

 こっちを責めるような言い方をしながら、愛しいと訴える声を出すのは本当にずるい。

 リリスに罪の果実を持たせておきながら、たっぷりたっぷり蜂蜜を掛けてくるの、本当にずるい。甘さと甘さと甘さと甘さ。酸味はどこへ消えたの。


(こんな、こんなの、知らない)


 ――いずれ誰かと、結婚する気はあった。


 多額の持参金を用意できない七人兄妹の末っ子。貴族として気品は足りないが、優しく温かな家族に囲まれて育ったリリス。

 きっとそのうち、見合った家格の男性と出会って、のんびりゆったり結婚まで行くのだと思っていた。アテはないが、きっとなんとかなると漠然と思っていた。


 愛し愛されるのが理想だ。貴族だけど、好ましい人と結ばれたいと思っていた。すぐには無理でも愛する努力をしようと思っていたし、同じ努力を返してくれる人と一緒になりたいなとのんきに構えていた。貴族として、かなり楽観的だっただろう。相手が爵位を持っていなくてもいいやと思っていたくらいだ。むしろない方が理想とまで思っていた。

 裕福でなくていいから、尊重し合う家庭を築きたかった。


 だけどこれじゃない。これは想定外だ。こんな…こんな愛は、知らない。

 愛し愛されるのは理想だけど、こんな密度で潰されてしまいそうな愛情は、知らない。


 だってこれじゃあ呼吸困難で死んでしまう。こんな降り注ぐような、絡めるような、のし掛かるような…逃がさないと固めるような感情は知らない。恋や愛と一言で片付けられないくらい、どっしり重いこれはなに。


 これを愛と呼ぶのだとしても、これ程愛される何かをした覚えなんか、ちっともないのに。

 リリスが戸惑っていると、ふとオニキスが視線を逸らした。


「…ああ、名残惜しいがそろそろ時間か」


 オニキスが残念そうにそういった。リリスには聞こえないが、オニキスの従者が時間を告げたらしい。

 え、従者どこ。見えない。どこ。


「リリス嬢…それではまた。次に会える日を、楽しみにしている」


 何の約束もしていないのに、また会えることを確信している言葉を残し。

 オニキス・ダークウルフは颯爽と去って行った。

 薔薇の香りでは誤魔化しきれない、愛の名残蜂蜜の香りを残して。

 リリスは呆然と、その背中が門の外に消えていくまでを見送った。


 ぴちち、と長閑な鳥の声が聞こえてくる。まるでオニキスの存在が幻だったかのように日常が戻って来たが、抱えた花束が否応にも現実を突きつけてきた。

 というか。


(…ねえ知ってる…? 今の全部、私に触れてないんだよ…?)


 花束を手渡したときも。距離を詰めたときも。跪き愛を乞うたときも。リリスの愛らしさを語ったときも。罪深いと詰めたときも。

 オニキスは指一本、リリスに触れなかった。


 まるでここで触れたらすべての体裁を殴り捨てて、リリスを攫いかねないとでもいうかのように。


 彼は触れなかった。

 触れなかった、のに。


 それなのに――リリスは抱きしめられて、撫でられて、執拗に舐められたような錯覚を覚えた。

 あの蜂蜜色に、見つめられただけなのに。


(ふ、ふぉおおお…っ!?)


 リリスは自分が覚えた淫らな感覚に羞恥心から花束を抱きしめ、声にならない悲鳴を上げた。

 その顔は赤薔薇と大差ないほど、赤かった。




 ちなみに一部始終は使用人達にしっかり目撃されており、オニキスが不埒な行いをしたと判断したときには飛び出せるよう待機していた兄たちがいたことを、リリスは最後まで気付かなかったし兄たちも気付かせなかった。

 気付かせなかったが、朝食の席が妙に気まずい空気になったのは、仕方のないことだった。


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