第21話 八月三十一日
八月三十一日。この日は亜佐飛にとって、一年でいちばん特別な日でもある。
「亜佐飛、お誕生日おめでとう」
亜佐飛は起きてすぐ、家族に自分の誕生日を祝われる。これは毎年この日だと、戸祭家ではおなじみの流れだ。
八月三十一日は八月最後の日と同時に、亜佐飛の誕生日でもある。そして、亜佐飛は家族でゆいいつの夏生まれだった。今日で自分も十一歳か、と思う。十歳と十一歳、一歳違うだけで、全然違う気がする。
そして、今日はホテルを出て、家に帰らなければならない日だ。ホテルでは一般的に何時までにチェックアウトしなければならないというのが決まっているが、今日は好きな時間に帰っていいと言われた。亜佐飛は今日が桂夏たちとの別れの日と思うと、今年は自分の誕生日にさみしさをおぼえる。
ホテル生活最後の朝、戸祭一家は二階のレストランで食事をとった。ここは亜佐飛が桂夏を初めて見た場所でもある。あの時は彼とこれほど親しくなるとは思いもしなかった。あれからひと月も経っていないのに、遠い昔の出来事のように感じる。
「お昼になる前に、予約してあるケーキを取りに行くわ」
知柚は亜佐飛に内緒で、ホテルから遠くない場所にあるケーキ屋でケーキを予約していたようだ。
朝食の後、亜佐飛はひとりだけ家族と別行動をとった。自分の誕生日は、好きな人に特別会いたくなる。
桂夏はラウンジにひとりでいた。亜佐飛は彼に近づく。
「亜佐飛、おはよう」
「おはよう、桂夏くん。あのね、私、今日誕生日なの」
「えっ!!」
桂夏は口を大きく開けておどろく。今までにないほどのおどろきようだ。
「まず、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「どうしよう、俺、せっかくの亜佐飛の誕生日なのに、なにも準備していない……」
桂夏は落ち着きを失っていた。そこにはなにも入っていなさそうなのに、ズボンのポケットの中をあさったりしている。
「一緒にいてくれるだけでいいよ」
桂夏からすれば、前もって自分に教えてくれていたら、という気持ちが亜佐飛にあるだろう。亜佐飛が自分の誕生日がいつなのかを桂夏に言わなかったのは、誕生日プレゼントをねだっているようで、ためらわれたからだ。
「ケーキを用意しなきゃな」
「ケーキなら、お母さんがケーキ屋で一台予約してあるみたい」
「もう一台あってもいいんじゃない? 亜佐飛だったら、ケーキの二個や三個、食べられるだろう?」
「えーっ。それって、私が食いしん坊ってこと?」
亜佐飛は澪史や北登とくらべて食に関心がないけれど、昨日の夜の食べぶりを見れば、桂夏にそう思われてもしかたない。
「でも、ケーキがいっぱい食べられる方が、澪史お兄ちゃんや北登はよろこぶかも」
「だろ?」
桂夏の表情がぱっと明るくなる。亜佐飛は「それじゃあ、またね」と彼に言って、部屋に戻ろうとした。
「あっ、待って」
そこで、桂夏が亜佐飛のうでをつかむ。
「亜佐飛って、高いところは平気?」
「多分。自分では高所恐怖症じゃないと思っているよ」
亜佐飛だけでなく、家族にも高いところをこわがる人間はいない。
「そっか。まあ、ホテルのバルコニーにいても、こわがるそぶりを全然見せないもんな」
桂夏はそれがわかると、手をはなす。亜佐飛はなんで桂夏はそんなことをたずねるのかと思う。
「今日、予定はなにもいれないでおいて」
「うん」
ふたりはそう約束した後、お互いに相手の目を見て手をふりながら、別れる。
昼過ぎ。亜佐飛は堂領家の御曹司たちを自分の誕生日会に誘った。
「亜佐飛ちゃん、十一歳のお誕生日おめでとう」
千綺が堂領家を代表して、亜佐飛に花束を渡す。
「ありがとう!」
「それと、これは僕たちからのささやかな誕生日プレゼントだよ」
亜佐飛は千綺に大きな箱を渡される。箱の中身は、今年発売されたばかりの家庭用ゲーム機だった。それは発売当初から爆発的な人気のゲーム機で、現在では全国どこの店舗でも入荷されにくい状態となり、入手は困難とされている。
「うわあーっ! これ、手に入りにくいのに! 全然ささやかじゃないよ!」
そのゲーム機にはだれよりも北登が反応した。澪史も話題の新商品に気分があがっている。北登との付き合いでしかコンピューターゲームをしない亜佐飛も、このプレゼントはうれしかった。
「亜佐飛ちゃんだけでなく、家族のみなさんで、このゲーム機を使って楽しんでください」
千綺が笑顔で言う。ふだんまったくコンピューターゲームをしない知柚や栄尋を誘ったらおもしろそうだと考えると、亜佐飛はそのゲーム機を早く使いたくなった。
室内のテーブルには亜佐飛の誕生日を祝おうと、ケーキやスナック菓子、オレンジジュースなどが置いてある。桂夏が用意したケーキもそろそろ運ばれてくる頃らしい。
「僕たち四人で、亜佐飛ちゃんとケーキを一緒に食べる権利を争おうよ」
千綺が自分のいとこたちに言う。
「ま、待って」
亜佐飛はそれにストップをかけた。四人は亜佐飛を見る。
「私、自分の誕生日は桂夏くんと一緒にケーキを食べたい!」
亜佐飛は顔を真っ赤にして自分の思いを告げた。今回ばかりは彼らの対決を見届けるのではなく、きちんと言うべきだと感じたからだ。
「亜佐飛……」
桂夏のほほもほんのりと赤くなった。桂夏以外の三人はお互いの顔を見る。
「わかった。悔しいけれど、今日だけは亜佐飛ちゃんを悲しませるようなことはしたくない。自分の誕生日って、特別だからね」
「桂夏! 亜佐飛ちゃんの誕生日を台無しにするようなことをしたら、容赦しないからな!」
雷冠が怒ったように言う。
その直後、桂夏が用意したバースデーケーキが客室係によって運ばれてきた。そのケーキはチョコレートケーキのようだ。
知柚が買ってきたのはショートケーキ。みんなで食事の席に着くと、知柚は亜佐飛の年齢の数だけケーキにロウソクを立てた。それから、栄尋がすべてのロウソクに火をつける。
澪史と北登はカーテンを閉めた。薄暗くなった室内で、十一本のロウソクの炎だけが、亜佐飛たちのまわりを照らす。
亜佐飛以外の人間は手をたたきながら、誕生日を祝うための歌を歌った。
歌が終わると、亜佐飛はふーっと息をふきかけて、ロウソクの炎をすべて消す。みんなは亜佐飛に向かって盛大に拍手した。
「おめでとう、亜佐飛」
「亜佐飛ちゃん、お誕生日おめでとう」
「みんな、ありがとう」
亜佐飛はたくさんの人に自分の誕生日を祝われて、胸がいっぱいとなる。それでも、桂夏とケーキを食べたい気持ちは変わらなかった。けれども、それをどうやって実現させたらいいのかわからず、その場から動けないでいる。
「亜佐飛は桂夏くんとふたりで食べるんでしよう?」
娘の恋心を感じ取ってか、知柚が部屋のカーテンを開けた後で言った。
「家族とは毎年食べているんだから、遠慮しなくていいよ」
澪史も気をきかせる。
「亜佐飛、向こうで食べようか」
「う、うん」
亜佐飛と桂夏はケーキとオレンジジュースの入ったコップを持って、窓際のテーブルに移動した。
「亜佐飛も男の子と誕生日を過ごすような、そんな年になったかあ」
栄尋は父親としてさみしさをおぼえている。
「これは当然の流れだよ。亜佐飛お姉ちゃんって、かわいいもん」
北登が言った。ふだんは口にしなくても、姉の容姿については高く評価しているようだ。
亜佐飛は桂夏のとなりでケーキを食べる。家族と食べたい気持ちはあるけれど、今年は桂夏とふたりだけという、このかたちが望ましかった。
「桂夏くんの誕生日はいつなの? もしかして、今月だった?」
「俺は七月二十日」
「先月だったんだ。祝いたかったな」
その頃、ふたりは出会っていない。
「来年、祝ってよ」
桂夏は亜佐飛がどきっとするようなセリフを言う。
「私たち、スイートルームでスイートなものを食べているね」
亜佐飛はそう言ってから、チョコレートケーキを口に運ぶ。
「どういうこと?」
「スイートルームって、甘い部屋って意味でしょ?」
「違うよ。そのスイートとはスペルが違う」
桂夏は亜佐飛ににつづりを教える。
「この部屋、リビングルームや寝室が一対になっているだろう? スイートルームのスイートはひとそろいって意味なんだ」
「そうだったんだ。ずっと、甘い部屋って意味なのかと」
しかし、意味が違っても、桂夏といればここが甘い部屋であることに違いはなかった。
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