第10話 ホテルで働く人たち



 戸祭一家はスイートルームに一泊してからは、ファミリー向けの部屋に戻ったり、部屋の定員以上泊まらないよう、家族で二組にわかれて少人数向けの部屋に泊まったりしていた。



 八月二十日の朝。八月も三分の一を切ったのか、と亜佐飛は二十という数字に思う。毎月、二十日を過ぎると、今月も終わりが近いな、と感じるタイプだった。



 亜佐飛は朝食をとった後、ひとりで部屋を出る。エレベーターに乗り、一階までおりた。このホテルにはいろんな職業の人が働いている。亜佐飛はここで毎日多くの勤め人見ているうちに、彼らの具体的な仕事内容が気になっていた。



 まず、男性コンシェルジュのもとまで行く。彼の名前は坂和富士彦さかわふじひこ。年齢は二十六歳。亜佐飛にとっていちばん話しやすいコンシェルジュで、名前や年齢を知るほどの関係になっていた。



「亜佐飛さま、おはようございます」



 富士彦は亜佐飛にあいさつする。亜佐飛から見て、富士彦はうるわしいという言葉が似合う人物だ。彼の顔を見る時はいつも、左のほほにある、星座のようにならんだふたつのホクロに視線がいく。



「坂和さん、今、時間ある?」



「はい」



「坂和さんはどうしてコンシェルジュになろうと思ったの?」



 亜佐飛はメモを片手に聞く。話の内容は自由研究に書くつもりだ。



「子どもの頃、家族で高級ホテルに泊まった時に、コンシェルジュさんによくしてもらって。その時、大人になったらこんな風になりたいと思ったんです」



「小さい頃の夢を叶えるなんて、すごいね」



 亜佐飛の子どもながらの感想に、富士彦はにこにこと笑う。



「そのホテルって、もしかすると、このホテル?」



「いえ、このホテルとは違います。そのホテルは閉業となったから、もうないんです」



「そうなんだ。それはさみしいね」



「私もしばらくはそう思っていました。なんであんなすばらしいホテルがなくなったんだろうって。だけど、悲しむだけでは大切な思い出さえも失われてしまう、ということに気がつきました。たとえ形はなくなっても、私の心には存在しています。私が忘れさえしなければ、そのホテルはいつまでも存在し続けるでしょうね」



「坂和さん、かっこいいことを言うね!」



 亜佐飛は興奮のあまり、大きな声を出した。これは自由研究に書かなければ、と。



「そして、このホテル・イングロッソには、あの頃のなつかしさをおぼえます。だから、日本にある数多くのホテルから、私はこのホテルを選んだのです」



 富士彦は顔を上げ、室内を見渡した。一階の天井は高く、広々としている。それはまるで一階で働く富士彦を優しくつつみ込むようなふんいきだと、亜佐飛は感じた。



 亜佐飛は他の職業の人にも話を聞く。中でも興味深いのはドアマンだ。なぜ、数ある職業の中から、ドアを開けたり閉めたりする仕事を選んだのだろうと。ドアマンの男性も子どもの頃にドアマンを見てあこがれたと、富士彦と似たようことを言っていた。ただ、彼らはドアを開け閉めするだけでなく、客の出迎えや見送り、車の手配など、他にもたくさんの仕事があることを知る。



 亜佐飛はそのまま花屋へと行く。ホテルで一時的に暮らすようになってから、ふたりの男性フローリストと顔なじみになっていた。丹上周太たんじょうしゅうた安良田士誠あらたしせい。ともに二十代後半だそう。



「丹上さんと安良田さんはどうしてフローリストになろうと思ったの?」



「花屋で働く男って、かっこいいかなと思ってさ」



 周太が答える。てっきり、花が好きだからという答えを想像していたから、亜佐飛としては意外だった。



「お前なあ、子どもの夢をこわすようなことを言うなよ。こういう場合は、言葉をえらばないとだめだろ」



 士誠がすかさず指摘する。



「ううん、安良田さん、いいの。私は正直に答えてくれる方がうれしい」



 お調子者の周太とカタブツな士誠で、ふたりの性格はまるで正反対だ。だけど、亜佐飛から見てふたりの息はぴったりに見える。



「まあ、丹上は大学時代に自分がおしゃれな喫茶店で働いたらきらきらと輝いて見えそうだからという理由で、その喫茶店でアルバイトしていたほどだから。こいつは何事にも他人が見た時の自分を重視するタイプなんだ」



 士誠が言った。



「ええっ!」



 亜佐飛はおどろく。すかさず周太に目線を移した。その顔つきからして、士誠の言うことは事実のようだ。



「でも、いちどやると決めたら全力でやるのが、こいつのいいところ」



 士誠が白くてならびのいい歯を見せて笑う。なんだかんだで、同僚として、周太のことを信頼している、というような表情だ。



「最初は軽い気持ちでこの業界に入った。でも、やってみると、おぼえることも多かったり、意外と力仕事だったりで、見ただけではわからないことだらけ。だけど、今ではこの仕事をやって本当によかったと思っているよ」



 周太が言う。亜佐飛はふたりの話で、働く動機は重要ではないと感じた。それよりも、実際に働いた後での気持ちの方が大事なのかもしれないと。



 亜佐飛はいろんな大人の話を聞いて、自分が社会人となった時に「この仕事でよかった」と思えるような仕事についていたいと思った。そのためには、早い段階から自分がなりたいものを見つけておかなければ、と。



「コンシェルジュもいいし、フローリストもいい。ここで働くとなると、迷うな」



 亜佐飛は大人になった自分の姿を想像する。



「でも、プログラミング塾の講師も捨てがたい」



 料理人や清掃員など、他にも話を聞いておきたい人はいるけれど、今日のところは部屋に戻ることにした。



「亜佐飛、おはよう」



 ちょうど、目の前から桂夏がやって来る。



「おはよう、桂夏くん」



 彼はひとりのようだ。亜佐飛はふたりだけで話せることにうれしい気持ちとなった。



「今までなにをしていたんだ?」



「ここで働く人たちに、どうしてその仕事をやろうと思ったのか、聞いていたの」



「それは自由研究の題材として?」



「うん」



「へー。書いたら、俺にも読ませてよ」



 桂夏は興味津々そうにしている。たちまち亜佐飛のやる気に火がついた。でも、書き終えてから桂夏に見せるか、桂夏に見せながらアドバイスをもらいつつ書き終えるか、そのふたつで迷う。亜佐飛は不完全なものを他人に見せたくないタイプである。けれども、桂夏はたよりになるから、途中段階から見せて意見をもらった方が、自由研究はよりよい内容となりそうだ。しかし、修正のしようがないほど完ぺきと桂夏に言わせたくもある。



 戸祭一家は八月三十一日の午前十一時にチェックアウトの予定だ。桂夏にすごいと思われたくとも、その時までに自由研究が完成していなかったら、彼に見せる機会はもうないかもしれない。亜佐飛はどうしたらいいか決断がつかない。



 桂夏は「ん?」という顔で亜佐飛を見ている。亜佐飛は桂夏の顔を見て、次に桂夏と会ったら言おうとしていたことを思い出した。



「桂夏くんにお願いがあるの」



「なに?」



「あのね――」



 まわりに人がいないのがわかっていても、桂夏だけに聞こえるよう、ひそひそと話した。桂夏は亜佐飛が自分の耳もとに口を寄せても、嫌がるそぶりも見せない。亜佐飛は彼との距離が近くなってうれしかった。



「ああ、それはいいんじゃない。俺からおじいちゃんに頼んでみるよ。少し時間がかかるけれど、いい?」



「うん!」



 これが桂夏ではなく、千綺だとしても、同じセリフを言われただろう。それでも、亜佐飛は頼みごとをするなら桂夏がよかった。



「ランドリーには行ったの?」



 桂夏が聞いてくる。



「ううん」



「じゃあ、今からふたりで行ってみようぜ」



 亜佐飛は桂夏にうでをつかまれた。



「わっ」



 桂夏はそのまま走る。彼の手が自分のうでに触れていることに、亜佐飛の胸はどきどきとした。



 ふたりはランドリーを見学する。客から回収したたくさんの洗濯物をどうやってきれいにするのかは、亜佐飛としても気になるところだ。家で洗濯機を置いてある場所とは違って、機械だらけのここはまるで工場のようでもある。



 桂夏と亜佐飛はひとりの中年男性の近くに立った。四十歳の栄尋より十歳は年上に見えるその男性は、特殊な機械でシャツの汚れを落としている。



「わあ!」



 シャツはみるみると本来の白さを取り戻す。小学生の亜佐飛からすると、それはまるで魔法のようだ。



「ここで働くとなると、まず大事なのは知識みたい。技術はやっていくうちに身につくんだって」



 桂夏が亜佐飛に言った。



「へえ」



 次に、アイロンがけをしている人の様子を見てみる。アイロンをかける前はシワシワだったワイシャツが、パリッと仕上がった。まるで機械のように正確だ。だけど、そのこまやかで卓越した職人技は機械以上だろう。



「すごいなあ」



「俺、たまにここへ来るんだ。見ているだけで楽しくて」



「その気持ち、わかるよ」



「亜佐飛ならわかってくれると思った。亜佐飛はそのへんの女の子と違うもんな」



「えー。それってほめ言葉なの?」



「んー……どうだろう?」



 桂夏は笑いながらすっとぼける。



「えー」



 亜佐飛は不満があるようなそぶりを見せつつも、桂夏に他の女子と同じような存在だと思われていないことに、うれしさで心が満たされていた。

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