第6話 千綺と桂夏だけじゃない!?



 翌日。戸祭一家が宿泊していた部屋は予約客がいるとのことで、五人はスイートルームに移動させられた。つまり、これまでの部屋よりグレードが上がるということになる。



「わあ……!」



 ホテルにある部屋で最上級だというスイートルームはずっと広くて豪華だ。亜佐飛たちは荷物ごと移動させられたことに不満はない。むしろ、無料でこれほどすばらしい部屋に泊まれるなんて、と家族全員よろこばしいくらいだった。



「俺、ずっとここに泊まりたい!」



 北登ははしゃいだ。



「どこの部屋でも泊めてもらえるだけありがたいんだから、謙虚でいなきゃだめよ」



 知柚は親として注意する。



「そうよ、北登。前の部屋もすてきだったことを忘れないで」



 亜佐飛も知柚に続いて言った。



 朝食の後、亜佐飛は一階のロビーで千綺と会う。



「部屋は満足してもらえたかな?」



 千綺は亜佐飛に聞いた。



「うん」



「亜佐飛ちゃん、今から一緒にプールで泳がない?」



「ホテルにプールがあるの?」



 亜佐飛の頭にあるのは学校のプールだ。ホテルの外にプールはあったかと思う。



「うん」



「でも、私、水着を持っていないよ」



「それくらい、買ってあげるよ。もちろん、他の家族の分も。というか、十五歳以下は保護者同伴でないと、利用できないんだ」



 亜佐飛は部屋に戻って、知柚たちにプールで泳ぎたいかを聞いた。



「今年は家族で一回も泳いでいないな。いいんじゃない?」



 澪史は乗り気だ。



「でも、どうせならお父さんの仕事が休みの日がいいよね」



 知柚が言う。そこに栄尋はいない。彼は今日も勤めている会社へ行っていた。



「お父さんがいる時に、また泳げばいいだけの話じゃん」



 北登が言葉を返す。ホテルにいる間、泳ぎ放題なのは間違いない。



「亜佐飛ちゃん、自由研究にまとめたいなら、プールで泳いでおくべきだと思うよ」



 亜佐飛は千綺のその言葉で決意を固めた。すぐに人数分の水着を用意してもらう。



 ホテルにあるのは屋内プールだった。亜佐飛たちはまず男女にわかれて、更衣室で水着に着替える。



「お母さん、きれい」



 亜佐飛は知柚の水着姿をよく言った。現在、三十九歳の知柚。昔から美容やダイエットに興味があるのもあって、結婚前と変わらない体型を維持しているそうだ。



「そ、そう?」



 知柚はほほに手をあてて、照れた。澪史と北登も「本当にきれいだよ」と心からほめる。



「後でお父さんにも見せなくちゃね!」



 北登は元気いっぱいに言った。



「今度、ふたりでゆっくり泳ぎなよ」



 澪史が続けて言う。



「……」



 亜佐飛はみんなの会話を聞いて、このホテルにいる間、知柚と栄尋がふたりで過ごす時間が必要ではないかと考える。



 ホテルのプールは学校にある二十五メートルプールとは違った。プールのかたちは楕円形である。亜佐飛は自分の家の中にこんなプールがあればいいのにと思う。そうしたら、季節や天候に関係なくいつでも泳げるのに、と。自分の好きな時に好きなだけ泳げたら、泳ぎも上手くなるだろう。クロールで速く泳ぐことは亜佐飛の目標だった。



「北登、迷子になるといけないから、お姉ちゃんのそばを離れないでね」



 亜佐飛はプールの中に入ると、真っ先に末っ子を気にかける。



「大丈夫だよ。俺、亜佐飛姉ちゃんに心配されるほど、もうそんなに子どもじゃないよ」



「えっ」



 北登はクロールですいすいと泳ぐ。そのまま、遠くへと行った。



「北登に泳ぎを教えたのは私なのに、お姉ちゃんより泳げるようになっているなんて――」



 亜佐飛は時の流れをしみじみと感じる。



 ホテルのプールは泳ぐより遊ぶことが目的のようで、客の多さもあり、学校のプールのようには泳げなかった。亜佐飛はビート板を両手で持って、のんびりと前に進む。その途中で、亜佐飛はひとりの少年とぶつかった。



「あっ、ごめんなさい」



 すかさず亜佐飛は謝る。その少年の年齢は亜佐飛と同じくらいに見えた。目じりがつり上がった切れ長の目で、怖いふんいきがある。



「あっ、もしかして、きみが戸祭亜佐飛ちゃん?」



 どういうわけか、少年の表情がぱっと明るくなった。



「そうだけれど」



 なんでわかったのだろう、と亜佐飛はふしぎに思う。



「俺、堂領雷冠らいかん



「堂領ってことは、桂夏くんか千綺くんと兄弟?」



「いや、そのふたりとはいとこ。おじいちゃんの息子は三人いるんだ」



「えーっと……」



 亜佐飛は頭で考える。つまり、名字は同じだけれど、三人それぞれ同じ親から生まれてはない、ということだ。



「このホテルにかわいい女の子がいるって聞いていたから、すぐにわかった。千綺が亜佐飛ちゃんに夢中になるのもわかるなあ」



 いとこ同士でそんな話をしたのか、と、雷冠のその話は亜佐飛を困惑させる。



「でも、あいつにはもったいないなあ」



 雷冠は水の中で亜佐飛のうでをつかむ。自分のもとまで、ぐいと引っぱった。



「亜佐飛ちゃん、俺なんかどう?」



 ふたりの顔が一気に近づく。雷冠は千綺にも桂夏にも似ていないけれど、堂領家の血筋を感じるほど、顔がととのっている。



「困るよ!」



 亜佐飛は雷冠のうでをふりはらって、泳いで逃げた。なぜか、桂夏の顔が頭に浮かぶ。



「もう、嫌になっちゃう」



 亜佐飛はプールから上がって、デッキチェアに寝ころぶ。まぶたを閉じて、少しの間、寝ようとする。



「戸祭亜佐飛ちゃんだよね?」



 その矢先、またしても、見知らぬ少年に声をかけられた。



「そうだけれど」



 亜佐飛は起き上がる。今度はだれ、と思う。



「僕は堂領鴻数こうかず



「また堂領家! いったい、創業者の孫は何人いるの?」



「さっき、雷冠と会ったでしょ? 僕は雷冠の弟だよ」



 話によると、雷冠は亜佐飛より一歳上で、鴻数は亜佐飛より一歳下のようだ。学年で言うと、小学六年生と小学四年生。



 目の前の鴻数はたれ目で、おだやかそうな顔つきをしている。髪の毛は耳が隠れるほど長かった。身長は百四十二センチメートルの亜佐飛より数センチメートル低い。



「亜佐飛ちゃん、うわさに聞いていたとおりにかわいい」



 鴻数は亜佐飛を見てうきうきとしていた。亜佐飛は自分のことをうわさされるのは嫌だな、と感じる。うわさしたのは桂夏ではなく、千綺だろう。これが桂夏だったら、亜佐飛もうれしかったに違いない。桂夏が自分の知らないところで自分のことを「かわいい」と言っていたとしたら、その日の食事もそっちのけになるほど胸がいっぱいになりそうだ。



「亜佐飛ちゃんは年下の男って嫌?」



 鴻数が聞いてきた。



「別にそんなことはないけれど。私、弟もいるから」



「……弟か。僕、亜佐飛ちゃんに弟と同じように見られるのは嫌だな」



 鴻数の意味深な発言に、亜佐飛の心はどきっとする。



「わ、私、もう行くね!」



 亜佐飛はデッキチェアから離れて、逃げるようにして去った。



 しばらく、プールサイドをとぼとぼと歩く。すると、目の前に桂夏がいた。



「桂夏くん!」



 亜佐飛は小走りで近づく。ここはプール。当然、桂夏も水着だ。いつもより桂夏の肌の露出が多いことに、亜佐飛はどきどきとする。



「さっき、ここで雷冠くんと鴻数くんに会ったよ」



「おじいちゃんの孫は俺を含めて四人いるんだ」



「じゃあ、私は全員の孫に会ったということだね」



 この調子だと何人もいそうだと思っていたから、これ以上いないことは、ほっとするような「あれ?」と思うようなだった。これでもう「きみが戸祭亜佐飛ちゃん?」と話しかけられることもない。



「今日は髪を結んでいるんだな」



 桂夏が亜佐飛を見て言った。彼の言うように、亜佐飛は長い髪を頭の後ろの部分でひとつにまとめている。



「うん。プールだと、髪の毛が長い人はそうしなくちゃいけないみたいだから」



「……その髪型もいいと思う」



 桂夏はあさっての方向を見て言った。言うのが恥ずかしいと思いながら、正直な感想をちゃんと伝えてくれたようだ。桂夏の勇気を想像すると、亜佐飛の胸が熱くなった。



 ホテルにいる間、プールじゃなくても、時にはポニーテールにしようかと考える。亜佐飛は髪を結ばない方が好きなのに、桂夏の好みに合わせようとしていた。



「ちょっと泳がない?」



 桂夏がプールを指さして、亜佐飛を誘う。



「うん!」



 亜佐飛の返事に迷いはなかった。



 戸祭家の人間は二時間ほどでプールを出る。



「楽しかったね。いい運動になったわ」



 知柚は屋内プールに満足していた。



「亜佐飛ちゃん、お昼はレストランで食事しない?」



 部屋まで戻ろうと、廊下を歩いている途中で、千綺がたずねてくる。



「お母さんや弟たちも一緒ならいいよ」



「ううん、今回は亜佐飛ちゃんひとりだけで来てほしいんだ」



 そう言われて、亜佐飛は迷う。でも、家族とはいつでも食事ができるから、たまには別々でいいだろうという気持ちになった。

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