第3話 嫌なやつ



 午後三時。千綺の希望で、亜佐飛は彼とふたりだけで会うことになった。ふたりは四階のラウンジの屋外テラスで落ち合う。亜佐飛にとって初めて耳にする「ラウンジ」は喫茶サービスつきの社交室や談話室、という意味としてとらえた。



「さっき一階で千綺くんに話しかけてきた男の子って、千綺くんの兄弟?」



桂夏けいかのこと?」



 亜佐飛はこくんとうなずく。



「いとこだよ」



「いとこ――」



 亜佐飛自身にもいとこはいる。栄尋の妹の子どもと知柚の兄の子どもの、計三人。千綺と桂夏は自分でたとえるとこうか、と亜佐飛は考える。



「僕のお父さんに兄がいるんだけれど、その息子なんだ、桂夏は。ちなみに、僕と桂夏は同い年だから、亜佐飛ちゃんとも同い年ってことになるね」



 あの少年は客ではなく、ホテル側の人間だったようだ。レストランにひとりでいたのも、ホテルの勝手がわかっているからか、と亜佐飛は納得する。



「だから、あの時『お客さま』って言ったのね」



 彼の言う「お客さま」とは、亜佐飛を含めたホテル・イングロッソの宿泊者全員のことのようだ。



 そして、千綺の父親の兄が桂夏の父親なら、彼の名字も堂領で間違いない。



「そうだ。あいつにも亜佐飛ちゃんがずっと泊まることを教えておかなくちゃね」



「えっ」



 千綺はラウンジから移動しようとした。これから桂夏に会うのだろう。亜佐飛の心はどきどきとする。自分はなぜ緊張しているのだろうと、その理由は亜佐飛自身にもわからなかった。亜佐飛は同級生の女子がどんなに「かっこいい」と騒いだとしても、特定の男子に魅力を感じることはない。これは亜佐飛にとって初めての気持ちだった。



 ふたりは千綺が泊まっているという部屋に向かった。そこに桂夏も一緒に泊まっているという。



「千綺くんたちはお客の立場じゃないのに、ホテルに泊まるんだ」



「もちろん、空き部屋にね。ホテルがどういうものなのか、堂領家の人間は子どもの時からそれを肌で感じなければならないんだ。僕や桂夏が将来的にこのホテルの経営者になるからね」



 同い年で将来のことが決まっているとは、自分と住む世界が違う、と亜佐飛は思う。



 千綺とともに部屋の中へ入ると、そこに桂夏はいた。亜佐飛の心臓の鼓動はまたいちだんと速くなる。



「亜佐飛ちゃん、夏休みのあいだうちのホテルに泊まることになったから」



「またお前は、勝手なことをして」



 桂夏は怒った。亜佐飛は自分が怒られているような気分となる。



「俺ら身内がホテルを好き勝手してどうする。もっと他のお客さまの気持ちを考えたらどうなんだ」



「亜佐飛ちゃんの家って、ふつうの家庭なんだって。だから、モニターとして泊まってもらえればいいだろ」



「ごめん、モニターってなに?」



 亜佐飛は千綺に聞いた。



「お客さんに無料で泊まってもらうかわりに、ホテルの感想を教えてもらうんだ。それはホテル側にとってもメリットがあるんだよ。経営しているだけだとわからないことに気がつけたりするからね」



 創業者が戸祭一家の無料宿泊を受け入れたのは、孫に甘いだけでなく、そういう目的もあったのだろう。



「一般的な家庭の亜佐飛ちゃんたちの意見となると、うちとしても貴重で役に立つんだ。無料で泊まっていると言いづらいだろうけれど、ホテルのここがよくないなって思った時は、正直に言っていいからね」



「うん」



「それに、俺たちはまだ子どもなんだから、そこまで考える必要はないだろ。経営のことは大人にまかせておけばいい。今は子どもだからこそできることをやっておくべきだ」



 千綺は桂夏に言う。ふたりは火花を散らす。同じホテル創業者の孫として、意見が対立しているようだ。



 その時、着信音が鳴った。千綺は自分用のスマートフォンを持っているようだ。



「ごめん、僕、ちょっと行かなきゃ。亜佐飛ちゃん、また後でね」



 千綺はその場を去った。



 亜佐飛は桂夏とふたりきりになる。亜佐飛はまた緊張した。



「ごめん。私たち家族がちゃんと断ればよかったね」



 亜佐飛は桂夏に謝る。



 でも、亜佐飛が夏休みのあいだずっと泊まることを決めたのは、桂夏と話したかったからだ。あなたにむしされたままは嫌だったから、とここで正直には言えない。



「いいよ、お前が悪いわけじゃないから」



 桂夏は亜佐飛にたいしてぞんざいな口のきき方をする。



「お、お前!? 私、亜佐飛って名前があるの。私が産まれた時に病室の窓から見た朝日がきれいだからって、お母さんがつけてくれた名前が」



「……」



 桂夏はなにもしゃべらない。



「フンだ!!」



 亜佐飛は怒りにまかせて部屋を出た。



「なによ、あいつ」



 廊下に出ても、亜佐飛の機嫌は悪いままだ。



「亜佐飛ちゃん」



 そこへ千綺がやって来た。千綺は亜佐飛に花束を差し出す。赤色やむらさき色など、いろんな色の花がある。



「わあ! すてきなお花!」



「亜佐飛ちゃんにぴったりだと思って。頼んでおいたものを取りに行っていたんだ」



「花屋まで買いに行ったの?」



「このホテルに花屋があるんだ」



「えーっ!」



 亜佐飛はびっくりとした。



「今から一緒に行ってみる?」



「うん!」



 千綺は亜佐飛を目的の場所まで連れていく。花屋はホテルの一階にあった。



「彼らはフローリストさん」



 千綺は亜佐飛にふたりの従業員を紹介する。どちらも若く美しい青年だった。



「家族だったり恋人だったり、自分の大切な人にお花をプレゼントするお客さんが多いみたい。それから、フローリストさんたちはホテルの部屋や宴会場の飾りつけもやってくれるんだよ」



 花屋には色とりどりの花が置いてある。こんなにすてきな空間で仕事できるなんて、と亜佐飛はフローリストという職業にあこがれをいだいた。



「お客さんの希望どおりの花束を作ったりもするんだ。僕からフローリストさんに亜佐飛ちゃんのイメージを伝えたら、完成したのがあの花束。すごいでしょ?」



「うん!」



「亜佐飛ちゃん、他にも回ってみようよ」



 千綺は亜佐飛の手をにぎる。



「わっ」



 亜佐飛は学校行事をのぞくと、年の近い男の子と手をにぎったことはない。千綺に気持ちはなくとも、心がどきっとした。



 千綺は一階の、ホテルの関係者でしか立ち入れないような場所まで連れていく。



「ここはランドリーだよ」



 そこでは多くの従業員がいて、何枚ものシャツがハンガーにかけられてあった。ここは洗濯が関係している場所、と亜佐飛は直感的に感じる。



「部屋のシーツやパジャマ、お客さんからのランドリーサービスによって持ち込まれた衣類を洗ったり、アイロンがけしたりするよ」



 パジャマは亜佐飛が泊まっている部屋にもあった。今夜、入浴の後にそれを着るつもりだ。

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