第2話 なぞの少年



 午後一時。一家は二階のレストランで食事する。客はこのホテルにぴったりの上品な人が多いように思えて、一家は萎縮した。亜佐飛たちにはごちそうに思える料理も、まわりの客たちは当たり前のように食べているのだろうと。



「あの男の子、亜佐飛と同じくらいの年齢かしら。きっと、あの子も家族と来ているのね」



 知柚が亜佐飛に話しかける。見ると、そこにはひとりの少年がいた。彼のまわりにはだれも座っていない。少年はもくもくと食べている。



 ふいに、亜佐飛とその少年の目が合った。少年の大きな目と、きりっとした顔立ちに、亜佐飛はどきっとする。



 しかし、少年はすぐにそっぽを向く。亜佐飛は「あっ」と声が出そうになる。むしされたような気分になったからだ。でも、なにも知らないどうしなのだから、彼が目をそらすのは自然なことだと、亜佐飛は自分に言い聞かせた。



 あの少年はなぜひとりでいるのだろう。家族と一緒ではないのか。亜佐飛はそこが気になった。



 食事の後、亜佐飛はひとりでホテルを見て回ってみることにする。昔から好奇心旺盛で、じっとしていられない性格をしていた。高級ホテルだと、なおさら探索せずにはいられない。二十分で部屋に戻る約束をしているのと、なにかあれば知柚に連絡するよう、澪史からスマートフォンを借りている。ホテルの中から一歩も外に出ないのも、自由行動をゆるされた条件だ。



 亜佐飛が一階の廊下を歩いていると、ひとりの男児が近くをうろうろとしている。年齢は五歳くらいだろう。「ママ、ママ」と、何度も叫んでいた。けれども、男児の母親らしき女性が来る気配はいっこうにない。



「きみ、どうしたの? もしかして、お母さんとはぐれちゃったの?」



 亜佐飛の問いかけに、男児はこくりとうなずいた。亜佐飛はその男児を一階のコンシェルジュのもとまで連れていく。このホテルに入った時、コンシェルジュは案内や世話をする係と聞いている。ホテルの中で起こった問題は、コンシェルジュにまかせておくのがいちばんだろう。



 コンシェルジュは若い男性だった。まるでファッションモデルかのような美しい顔に、亜佐飛は思いがけずどきっとする。



「お客さま、迷子のお客さまを連れていていただき、ありがとうございます」



 コンシェルジュは亜佐飛に向かってにっこりと笑う。



「はい!」



 いいことをして、大人に礼を言われて、亜佐飛はいい気分になる。



「ここは本当にすてきなホテルね」



 そろそろ部屋に戻ろうと、エレベーターに向かおうとした時だった。目の前にひとりの少年が立っている。少年は亜佐飛に向かってほほえんでいた。



 近くで見なくてもわかる、ととのった顔立ちだ。目はぱっちりと大きく、あごの先はするどくとがっている。髪の色は茶色かった。それは生まれつきなのか、染めているのはわからない。同じ日本人でありながら、どこかの貴族のようなふんいきがただよっている。



「きみ、迷子を案内したの?」



 少年は亜佐飛に話しかけてきた。



「えっ? うん」



「きみはやさしいんだね」



「人として当然のことをしたまでだよ」



「僕、堂領千綺どうりょうせんき。きみの名前は?」



「戸祭亜佐飛」



 名前まで言わされるとは思わず、亜佐飛は身がまえる。



「亜佐飛ちゃんはすごくかわいいね」



「ありがとう……」



 自分のことをよく言われて、悪い気はしない。一応、礼を言っておく。



「亜佐飛ちゃんは小学何年生?」



「五年生」



「じゃあ、僕と一緒だ!」



 千綺はその事実にはしゃぐ。



「このホテルには家族で来たの?」



「うん」



「いつまで宿泊するの?」



「明後日で帰るけれど」



 それは教えない方がよかったか、と、答えた後で思う。亜佐飛は質問されてばかりな状況にちょっと疲れてきた。



「もっと泊まりたいと思わない?」



「それはむりかな。うちの家、お金持ちでもない、ふつうの家だから。こんないいホテルにずっと泊まっていたら、家のお金がなくなっちゃう。今回はお父さんがお金をがんばって貯めてくれたから、家族で来ることができたの」



「僕が無料で泊まれるようにしてあげるって言ったら?」



 千綺が得意げに言う。子どもがなにを言っているのか、と亜佐飛は思った。



「千綺!」



 そこへ、もうひとりの少年がやって来る。それはさきほどレストランにいた少年だった。



 亜佐飛はふたりの顔を交互に見る。彼らは兄弟か?と思った。だけど、顔が似ていない。でも、同じ男兄弟でも、澪史と北登だって似ていないのだから、それだけの理由で兄弟でないとは言い切れない。



「お前、今までどこに行っていたんだよ」



「こちら、戸祭亜佐飛ちゃん。家族で泊まりに来ているんだって」



 千綺は少年からの質問に答えず、亜佐飛を紹介する。



 そこで亜佐飛と少年の目が合う。これでふたりの目が合ったのは二回目だ。彼はレストランでの出来事をおぼえているだろうか、と亜佐飛の心はどきどきとした。だけど、少年はそっぽを向く。亜佐飛にまるで興味がなさそうだ。亜佐飛はまたむしされたような気分となる。



「お客さまにめいわくをかけるなよ」



 少年は千綺にそれだけ言って、去っていった。



「……お客さま?」



 亜佐飛はだれのことを言っているのだろうと、その言い方をふしぎに思う。



「ごめん、じゃまが入ったね」



 千綺が亜佐飛に言った。



「別にじゃまとは思わないよ」



「いきなりな話だけれど、僕、亜佐飛ちゃんのことが好きになったみたい。女の子と出会って、こんな気持ちになったのは初めてなんだ」



「そう……」



 そう言われても、亜佐飛は千綺を見たところで、なにも感じない。どちらかと言うと、もうひとりの彼の方が――と思いかけたところで、首をぶんぶんとふった。あの彼は性格が冷たそうだ。性格がよくなさそうな人をいいと思うなんて、亜佐飛のプライドが許さない。



「亜佐飛ちゃんの家族のみなさんに大事な話があるんだ。部屋まで案内してくれないかな?」



「大事な話?」



 そんな言い方をされると、家族に会わせなければならない気になってくる。そして、千綺はあやしい人間ではなさそうだ。亜佐飛は彼を部屋まで連れていく。



「あら、亜佐飛、学校の同級生と会ったの?」



 知柚が千綺を見て真っ先に言った。



「亜佐飛さんのご家族のみなさん、初めてお目にかかります。堂領千綺と申します」



 千綺が自己紹介する。ふたりでいる時は「亜佐飛ちゃん」と呼んでいたのに、亜佐飛の家族の前では「亜佐飛さん」になっている。人によって言葉を使い分ける、しっかりした印象をいだく。



「このホテルの創業者は僕の祖父にあたります。つまり、僕は創業者の孫です」



「えっ!!」



 千綺の話に、栄尋と知柚はびっくりとした。



「創業者って、スウェーデン人と会った人?」



 澪史が聞き返す。



「創業者って、すごい人なの?」



 北登が知柚にたずねる。



「そうね。こんなに立派なホテルを作って、経営しているのだから、すごい人なのは間違いないよ」



「ひと言で言うなら、大金持ちってこと」



 栄尋が子どもたち全員に伝えた。



「このホテルの創業者、確かに堂領って名字だから、本当みたいだよ」



 澪史はスマートフォンで調べている。



「堂領って名乗っているだけじゃないの? 名乗るだけなら、だれでもできるじゃん」



 北登はうたがう。



「いや、彼は確かに創業者の孫みたい。ほら、この写真、創業者とその子が一緒にうつっている!」



 澪史の言葉で、家族全員が澪史のスマートフォンの画面を見た。それを見た戸祭一家は「本当だ!」とおどろく。



「うたがってごめんなさい」



 北登は千綺に頭をさげる。



「ううん、いいんだ。自分の身を守るために、知らない人をうたがうのは大切なことだよ」



 千綺は広い心でそれを許す。北登はたちまち笑顔となった。千綺に心を開いた瞬間でもあるだろう。



「本題に戻りますね。亜佐飛さんから、みなさんは明後日で帰ると聞きました。せっかく友だちになった亜佐飛さんと、ほんの数日でお別れするのはさみしく思います」



 千綺が言った。亜佐飛は「友だちになったおぼえはない」と思ったけれど、なにも言わないでおく。



「ですから、夏休みが終わるまでのあいだ、みなさんにはずっとこのホテルに泊まってほしいのです。もちろん、こちらがむりを言っているので、宿泊費や食費など、それにかかる費用はいっさい請求しません。当ホテルを、心ゆくまで楽しんでください」



 千綺の提案は、亜佐飛たちみたいな庶民からすると夢のような話だった。



「そんな、こんなにいい部屋を無料で泊まるだなんて、ここのホテルの人たちに悪いよ」



 栄尋は遠慮する。



「私たち家族がチェックアウトした後、この部屋の宿泊を予約しているお客さんがいるんじゃない?」



 知柚も後に続いた。



「その場合には、みなさんには空き部屋に泊まってもらいます。ひょっとしたら、スイートルームに空きがあるかも――」



「ス、スイートルーム!!」



 千綺の発言に、栄尋と知柚は声に出しておどろく。



「お母さん、スイートルームってなに?」



 亜佐飛は聞いた。



「料金がいちばん高い部屋のことよ」



「えっ!!」



「でも、僕は会社員だから、十七日からまた仕事がはじまるんだ」



 栄尋が言う。今日は八月十三日。社会人の栄尋は十六日までが仕事休みだ。それはプログラミング塾を経営している知柚としても同じであった。



「ここから勤務地まで通うとなると、家から通うより遠くて不便になるね」



「その心配はいりません。ここからお父さまの勤務地までリムジンで送迎するよう、うちのお抱え運転手に言っておきます」



「リムジン!?」



 栄尋はおどろきのあまり、とんきょうな声を出す。



「お父さん、リムジンってなに? お抱え運転手ってなに?」



 亜佐飛は聞く。さきほどから、千綺の話は亜佐飛のような庶民の子どもが知らない単語がよく出てくる。



「リムジンとは運転手つきの高級な車のことだよ。お抱え運転手は特定のお客さんの専属運転手ってこと。お客さんになるのは会社の役員や政治家、芸能人が多いだろうね」



 亜佐飛はその言葉の意味を、お金持ちの乗る車とお金持ちのための運転手、と受け取った。



「俺、乗ってみたい!」



 北登の目が輝く。彼はもともと電車やバスなどの乗り物が好きだ。



「きみは亜佐飛ちゃんの弟さんかな? 名前はなに?」



 千綺は北登に話しかけた。



「北登です」



「北登くん、リムジンに乗りたい時はいつでも言って。乗せてあげるから」



「わあっ!」



 これで、北登の心はますます千綺に掴まれたことだろう。



「お父さんとお母さん、ここはお言葉に甘えていいんじゃない?」



 亜佐飛が言った。ここで断ったら、北登ががっかりするのは目に見えている。亜佐飛は弟の悲しむ顔を見たくなかった。それに、このホテルを満喫することは親孝行になるとも考える。亜佐飛は自分以外の家族をよろこばせたくなった。



「私、ちょうど今年の夏休みの自由研究はなにをテーマにしようかなって、困っていたの。このホテルに長く泊まるのなら、このホテルついて研究して、一冊のノートにまとめられるなって思った」



 このホテルに泊まり続けるなら、亜佐飛としてもメリットがある。ホテルについて調べるのに、二泊三日だけでは足りないだろうと。それに、亜佐飛としてはあの少年のことがひっかかる。千綺とは親しい間柄のようだから、千綺といればまた彼に会えるだろう。



「うわあ、亜佐飛ちゃん、それは僕としてもうれしい! 困った時はいつでも僕を頼ってね」



 千綺はにっこりと笑う。



「俺、まだこのホテルにいたい!」



 北登が言った。澪史も「俺も!」と同意する。



「子どもたちがそこまで言うなら――だけど、一家全員、衣類は二日分しか持って来なかったんだよね」



 栄尋が千綺に言う。夏休みのあいだまでとなると、二週間以上ある。予定宿泊日数にたいして、着替えが確実に足りない。毎日洗濯すれば服を着られるけれど、高級ホテルにいるのに、二着の服を何度も着回すというのは不便に思う。



「自宅まで取りに行けばいいでしょう。いや、みなさんの服くらい、こちらが買いそろえますよ」



 千綺が言葉を返す。堂領家の財力に頼ればなにも心配いらない、ということだ。



 そこで、戸祭一家の長期宿泊が決まった。しかし、まだこの段階では千綺がひとりで言っているだけだ。千綺がよくても創業者は「だめ」というのではないかと、亜佐飛は半信半疑だったが、千綺が自分の祖父に頼むと、彼はそれをすんなりと受け入れたらしい。創業者は孫に相当甘いようだ。

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