帯の霊験
山茶花
(一) 藤原実房の時代
鳳至ノ孫が能登国を出たあとで、国守に率いられて鳳至の家に押しよせていた一党は、思うままに家を漁って、我が物とした。蔵にかけられた鍵もたちまち壊されてしまった。櫃はすべてあけられたし、畳はすべてはがされた。一党は例の帯をついに見つけられなかったが、得るものは得られたので、不満はない。彼らが去るころには、家はぬけがらのようで、残された門が大きく茅葺の屋根の立派であることが、かえってそれをむなしく見せた。
こうして鳳至の家は潰れた。
その後、能登国には厳しい時代がやってきた、と言われている。
なぜなら、ろくでなしの国守が、人びとを腐らせたからだ。国守は、気まぐれのように群家に立ち寄っては、もてなしを求めたり、都に荷物運びにやらせたりした。機嫌を損ねれば、いつ鳳至の家のように潰されてしまうかわからない。税をとりたてるときには、百姓の収穫を過大に見積もって、その分おおく取ったし、それでいて国分寺や用水路の修繕はろくにやらず、やるときには適当な者に負担を強いた。国守からしてこんなだったから、郡司たちもその流儀に習った。気づけば、人びとは互いに敵同士で、いつの間かいなくなっている百姓たちもおおかった。人心も土地も荒んだ。鳳至ノ孫がはやばやと逃げてしまったのはさいわいなことだったのかもしれない。
その能登国に次の国守としてやってきたのが源行任だった。彼は、前任とは逆に君子然とした人物だったと言われる。
言い方をかえると、百姓の風紀にいちいち口出しするうるさい人物で、まめに部内をまわって、その都度、どの土地が肥えていてどの土地が痩せているか、洪水や干ばつに供えはあるのかを説き、さらに土木工事や家庭のことにまで教えをたれた。そのおかげで、はじめはずいぶん土地の者たちから嫌われらしいが、しばらくすると、彼の教えに従って間違いないことが知れわたった。その言いつけに従えば、春の一粒が秋に万倍となってかえってくるかのようだ。それを見て、百姓たちは、間違っていたのは自分たちだったと気づいた。その徳の高さは、人心を啓発し、悪人にも己を恥じ入らせ、滴が水面に落ちたときのように、感化の波が部内のすみずみまで行きわたった。行任を直接見ないものでも、だんだんとましになっていくほどだ。こうして能登国は全国でもめずらしい豊かでいい土地になったということである。
行任の次なる国守として藤原実房が着任してから、何かにつけて土地の者から聞かされた物語は、そのようなものだった。国がよくなったりわるくなったりするのは、その国の長ある守の人徳次第である、というのがその教訓である。
「私たちがこの国に来てからもう三年だ」
と、実房は言った。彼は国衙の庭をぼんやりと眺めながら、都から連れてきた郎党の一人に言った。庭の桜の木には緑が茂っている。
「私たちは、ここに来てから一度だって官物の未進をしたことがない。しかも、不当に税をとりたてたこともない」
「さようでございますな」
と、下人は首肯した。
「すばらしいことだ。どんな国でもこうであるわけではない。きちんと仕事をしてさえいれば、十分に見返りがある。財産も手に入る」
「さようでございますな」
「神仏の清浄も保たれている。この国は安泰だな」
「さようでございますな」
と、下人は言った。
「なにもかも、行任様のおかげでございますな」
実際、国は豊かだったし、郡司や百姓たちももの分かりがいい。寺社もまめに手入れされていて、儀礼も正しく行われている。証文や年貢の管理も滞りがない。それはすばらしいことだった。しかし、それらが障りなく行われていて、この国が治められているのは、前国守である行任様のおかげであって、けっして実房のおかげではないのだった。人びとは実房について何も語らなかった。彼が着任してから三年の月日が経った今でもそうである。
「私は、いい国に任じられたと思う。これほど労なく治められる国は、今どき多くない。この私の幸運は、もしかしたら前世の果報であるのかもしれないな。ただ、人びとが語るところよれば、けっしてこの繁盛は永遠のものではない。行任殿の成したことであって、その前にはなかったことだということだ」
と実房は言った。
「まったく、さようですな。つくづく、ありがたいことでございます」
と下人は言った。
「だが、私はときどき思う。本当にそれほどのことが一代でできたことなのだろうか?」
「と、言いますと?」
「つまり、もともと国は土地が肥えていたし、人びとはよくできていたのじゃないかってことさ。もちろん、行任殿よりも前に、暗く不毛な時代があったというのだって、嘘じゃないだろう。しかし、浮き沈みは世の常だ。天地神明の機嫌を損ねているような時は、どこを誰が治めたってわるくなるものだ。お前も鳳至の廃墟を見たことがあるはずだ。あの大きな家が廃れたということは、たしかにそれほどわるい時代だったとも言える。が、そもそもその前に豊かな時代がなければ、そんな大きな家が建つこともない。そうじゃないか?」
「ははあ、なるほどですな。そのようなお考えも、もっともかもしれません」
「私が思うに、豊かな土地にものわかりの民衆というのは、昔からここの土地柄なんだ。そういうところでは、国を繁盛させることはもともと難しくない。なにしろ、行任殿が去って私に変わった後でも、それが続いている。これが何よりの証拠というものじゃないか」
実房の考えでは、もし行任が着任した時代に、代わって自分が能登国守として着ていたならば、行任同様の業績を自分もあげられるはずだった。よするに、行任は、たまたま沈んだどん底の時代の次にここに来ただけで、その後は誰が来ても浮上するだけというところに、居合わせたのにすぎない。たいしたように言われているが、その実、行任仕事は、誰にでもできることで、もちろん自分にもできた。しかも、実房は、能登国に着いて以来たいした苦労を感じることはなかったのだから、うんと本気を出せば、行任よりも全然いいことができたかもしれない。そのときには、人びとが行任をもてはやすのと同じように、実房のことをもてはやし、その名声が後の時代にも伝わったことだろう。
実房は、そう考えてはいたものの、そこまであけすけに言うことはできなかった。
「まあ、人が時の流れを大げさに捉えてしまうのは、よくあることだ」
と実房は言った。
「豊かな暮らしも、慣れてしまうものだし、いったん慣れてしまえば、それより貧しいことがいかにも悲惨に思えてくる。今から昔を振りかえり、そんな時代のことを思えば、苦界から蘇った思いがするのだろう」
「そういうこともあるかもしれませんな」
と下人は言った。
「ところで、お前はどう思うんだ?」
実房は訊いた。 彼は、下人の返事が同意でないことが引っかかった。
「わたくしの見解ですか? 言うように及ぶようなことはありませんが……」
「率直に言ってくれてかまわないよ。いや、何も問い詰めるつもりじゃないんだ。ただ、私は、あくまでも着任して以来、自分の見聞に基づいて、きっとこの土地が昔から豊かだったんじゃないかというという見解を抱いただけだ。見る目が変われば、まるで違う景色が見えることもあるだろう。そこで、お前の目にはどんな風に見えているのか、気になるだけだ。『論語』にあるように、ただ誤るだけなら過ちと言うには及ばないが、誤ったことに気づかぬままでいるのは、それ自体が過ちというものさ。何か勘違いが分かれば、お互いに有益なんだ。お前の思うところを教えてくれ」
「いやはや、そこまで言われてしまうとまことに申し訳ないのですが」
下人は答えた。
「なにしろ、守もご存じのとおり、わたくしは守と伴に都から参った者にすぎません。土地の者が申すことごとに、それはおかしい、そんな話はなかろうと思うほど、この国の前の時代について詳しく知るわけではないのです。守ほど深いお考えがあるわけでもないのです。わたくしに答えられると言えばこんなことぐらいでして。守のご期待に添えず、まことに情けなく思う次第ですな」
「なるほど、わかった」
実房は、下人の言うことがもっともと思いながら、それでいて、手ひどい裏切りを味わっていた。文机の前で、例のように居ずまいを正して、筆習いをつづける下人の姿に、実房がおろかな質問を投げたことを、仕方がないから見すごしてやろうという尊大さを見た。わざわざ何事もなかったことを演技しているかのようだ。一筆にごとに、肘がかすかにゆれるのが、嫉妬に駆られる実房への隠微な嘲笑さながらだ。もちろん、そんなことは前がかりな自分の妄想にすぎないとは実房にも分かっていたから、ことあらためて何も言うことはできない。
しかし、人の口に戸は立てられないことを思わないではいられなかった。この下人が明日から実房が先ほど述べたことについて吹聴してまわることを思った。行任の時代という色眼鏡を通さずに過去を見ることができない愚かな者共が、自分にたいして何を思うだろうか? 実房をどんな滑稽な男と見做すだろうか? 想像のひとつひとつに弁解し、反論したいところではあったが、それはかなうべくもなく、彼の想念の中でさ、人びとはみんな行任の味方だった。
実房は、何の役にも立たない悩みを頭から追いだすべく、目を閉じて、深く息を吸い、吐いた。
鳳至ノ孫が、長い放浪を終えて、能登国に帰ってきたのはその翌日だった。
鳳至ノ孫は、かつて住んでいた家に住みたい旨を守に申し出るため、また、一度国から逃げ出したことの赦しを願うために、国司館までやってきた。実房の立場としては、悪政の被害者ともいうべき彼にことあらためて対償を求めようというつもりもなくて、二つ返事で終わりにしてもよかったのだが、直々に聴聞することにした。
なぜなら、鳳至ノ孫は、源行任の時代の前にこの国を逃れた者、行任の時代と比較することなく、より古い時代を語ることができる者だったからである。
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