地底に眠る人の業
耳の鼓膜が急速に流れゆく大気の存在に震える。
地下へと繋がる狭い口は唯一の通路なのか、吹き抜けるような風はなく、落下する程に沈殿したような淀んだ空気の存在が奥に感じられる。
その瞬間、アリアはまるで怪物の腹の中へと飛び込んだかのような錯覚さえ覚えていた。
「———わわっ!!」
視界が一気に開け大きな空洞へと踊り出ると同時、足下から包み込むような大風が巻き上がり、少年を抱えるアリアを添えるようにゆっくりと床へと降ろす。
二人の顔が一瞬驚愕に染まるも、アリアは誰の仕業か理解すると本人の方を見遣る。
少年は突如たる襲撃に始まり、終始心此処に在らずといったように呆けていた。
「ありがとう、メアリスさん」
「うむ、少年も無事なようだね」
安堵を促すように笑い掛けるメアリスは、一体の空気の流れを操作し湿気や熱気を退ける。
するとジメジメとした不快感が一掃され、入れ替わるように澄んだ涼しげな空気が肌を駆け抜ける。
「下水が流れていないし、もう使われてないみたいだけど…」
「成程、確かに密かに動くならうってつけの環境だね」
強固な壁に覆われた地下水道の深度は常人が侵入するには躊躇われる程であり、況してやあれ程朽ちた侵入経路を使おうなどとは思わない。
入り口が一つしかないという点で逃げ道の確保が出来ないのが疵であろうが、それを差し引いても隠密には適していると言えるだろう。
「この先は一本道なのかな?」
「ああ、まだ居るならこの奥にアイツらが…」
まだ居るなら、というのは先の襲撃から少年の存在が相手にバレている意味だろう、とアリアは受け取った。
ならばコレから相手に動きが無いと考えるのはあまりに悠長と言えるだろう。
待ち構えているであろう敵を予見するアリアの傍で、メアリスは一つ気になった点を指摘する。
「妹は一人じゃないのかい?」
「…オレと妹以外にも居たんだ」
「それは子供かい?」
「ああ、妹くらいのが何人か…」
少年の話に顔を顰めるアリア。
どうやら単純な誘拐などではない可能性が見えてきたようである。
「それって…」
「…違法奴隷、といったところかな」
正確には人身売買であるが、その扱いは奴隷かそれ以下であることは想像に難くない。
貴族こそ民の味方たれと掲げるアリアにとって到底許容できることではないが、度し難い趣味嗜好を他者へと———それも抵抗の許されない身分の者へと強要する人間は上流階級にも一定数存在する。
そんな者達にとって、その大抵が戸籍のない違法奴隷という存在は都合が良く、悪徳の餌食として数えられる事も多いのだ。
「となれば、もしかするとこの辺りに外法組織でも潜んでいるのかもしれない」
「ロングレアの近辺じゃ聞いたこともないけど…伯爵に聞いてみるべきだね」
動きに波の無い上、小さな組織であれば巨大な影に隠れ伯爵でも認知していない可能性もある。
逆に巨大な組織であれば輪郭を捉えても上手く尻尾を巻かれてしまうが。
王都に強襲を仕掛けた時期やスラム街での活動時期を考えると、もし奴らが関わっているのでれば最近になって発足されたことも考えられる。
アリアは厄介な事実を予見し、メアリスへと目を配る。
「どうやら、ただ滞在するには終わらなさそうだ」
メアリスは頭痛を催す可能性の未来に嘆息する。
稀に見る、という程でもない事件ならば一も二もなく頷いたものであるが、どうにも漂う臭いが嫌な予感を訴えるのだ。
彼女達は口を動かしつつも足を止めず、辛うじて稼働する光源と、魔術による光を頼りに奥へと進む。
伽藍堂の空間は音が反響しやすく、乾いた靴底を叩く音が三人分、遠くまで渡る。
「……」
「…どうかしたの?」
そうして、ある地点まで留まることのなかったメアリスの歩がピタリと止む。
アリアと少年は如何なることかとメアリスを見遣る。
彼女は正面———暗がりの向こう側へと視線を飛ばす。
二人はそれに釣られるように視線を正面へと向けた。
「…どうやら向こうから出迎えてくれるらしい」
———彼女の言葉を証明するように、止んだ足音が再び響き始める。
しかしそれは彼女達のものではなく、全く別の第四の足音であった。
最初は雫の如く小さかったそれは、一つ鳴る毎に強く響き、ギリギリと緊張の糸が張り詰めて行く。
アリアは剣を抜き放ち、少年の肩に手を回して彼がメアリスの影に収まるように構えた。
数秒後、足音は数歩鳴らされた後、灯の届かない影の最中で鎮まり、鳴りを顰める。
アリアの少年を抱く手に力が籠る———
《他解自在———
———突如、暗がりの奥から強烈な圧が放たれる。
魔獣が牙を剥き、爪を顕に眼前まで肉薄しているかのような威圧感に、瞠目する。
まるで津波の如きソレが自身を呑み込まんと迫り来る程に肌のヒリつきが加速し、柄を握る手が締め付けられる。
その直後、メアリスが正面を睨み付け、分厚い魔力の波動がプレッシャーを真向から消し飛ばす。
アリアは彼女と下手人との間に大気が破裂するような光景を幻視する。
「———初見殺しのつもりだったんだがなぁ」
静けさの後、迫る足音と共に暗がりに薄らと影が一つ浮き上がる。
苛つきの混じる特有の低音と、その大柄なシルエットから男である事は一目瞭然。
アリアの腕の中で、少年が僅かに震える。
彼女の瞳の鋭さが増した。
「てっきり他の奴を置いて逃げちまったのかと思ったが…お利口さんで助かったぜ」
「ふむ、では彼の勇敢さに免じてその子達も解放するというのはどうだろうか」
「そりゃ出来ねぇ相談だ。なんせ面倒なもんも一緒に引き連れてきやがったからな」
剣呑な雰囲気を纏いつつ戯けるメアリスに、皮肉気味に返す男はとうとう闇から姿を現す。
まず視界に入ったのはアリアやメアリスとは比較にもならない、幾重にも重ねたような鎧の如き筋肉であった。
男はその上から赤黒い袖の無いインナーを身に付け、両手両足、そして腹部に包帯を巻いていた。
背後ではその包帯に挟むようにして一対の鉄の棒———旋棍を携えているのが見える。
魔物と見紛う四肢を持ちながら、全体はその巨躯によってバランスが取れており、むしろ引き締まった印象さえ抱く。
男は仮面を弄りながら篭もり気味の声で言う。
「よくもまあ知らねぇ餓鬼の為にこんな臭えとこ来れるぜ。それも森人がよ」
「…彼が必死だった。だから応えただけだよ」
「ダッハッハッ!善意が輝いてんな、こんな下水にゃ似合わねぇ」
その笑い飛ばす声は爽快で悪性などかけらも感じさせないものであった。
だがその所業を理解しているアリア達にとって、それは人間性が食いちぎられたような不気味なものに映る。
「だがまぁ、折角知り合えたなら…挨拶はしねぇとな」
男は居直すように正面に構える。
「俺はガグ・バレッズ。団長程じゃあねぇが…まぁ破落戸のまとめ役みたいなもんだ」
仮面で正体を隠したまま緩慢な足取りで現れた男———ガグはゆったりと片手を持ち上げる。
「短い間だが———よろしくな」
———そう言ったガグが手刀を振るうと同時、先端から不可視の斬撃が放たれる。
そう遠くない間合いからすり抜けるような殺意の軌道に乗り放たれた斬撃は、弧を描いて空間を駆け、一瞬にして少年へと到達する。
「———」
彼に接触する寸前、冷や汗が噴き出るよりも早く、アリアは反射的に剣を振るい不意打ちを斬り払う。
駆け抜ける疾風が少年の頬をほんの僅かに掠り、細い痕が残る。
彼は目の前で起きた事象に呆然としながら、繋がれていた糸が切れるようにその場にへたり込んだ。
アリアはガグが明確に少年を狙ったことを察し、先の斬撃にも引けを取らない怒りと殺意を見せる。
「…何故、この子を狙った」
「そりゃあ余計な事する奴は始末しねぇと…上にも許可はもらってるんでな」
「ッ……やっ……ぱ、り……!」
そのあまりに無慈悲な言葉に大きな反応を見せたのは、他でもない少年であった。
彼はその場に項垂れたまま絶望と失望を体現するように顔を歪ませる。
「だからまぁ…大人しく受け入れてくれや」
ガグは気怠げにそう呟くと、仮面を直すような仕草を見せて臨戦体制へと入る。
「させる訳———え、ちょっと…!」
アリアも迎え撃つように剣を構える———その瞬間、少年が弾かれたように駆け出した。
アリアも予想外のことに反応が遅れ、少年を掴もうとした手が虚空を切る。
メアリスも同様に傍を抜けようとした少年を蔦で巻き取ろうとする———が。
「(———何だ…?)」
意識が傍へと外れ、彼女の手が止まる。
警戒から加速する神経の中、彼女の聴覚が捉えたのは壁を伝って反響するような異音であった。
まるで巨大な鐘が鳴るかのような、あるいは空洞に風が抜けるかのような、低く重い不安を煽る音の波。
———それが驚異的な速度で近づいて来る。
「———外か」
メアリスは半ば無意識的に自身と、そして二人へと防御を展開し、同時にガグの位置を正確に捉え、少年へと近づこうとする彼の周囲を炎上する岩槍の檻で囲う。
ガグは兆候を目敏く察知し、紙一重で回避する。
「(残るは———)」
一瞬にして展開された一連の攻防の後、メアリスは外なる強襲へと意識を割いた。
その時———爆音が響き渡る。
「ゥ…!!」
それは宛ら絶叫にも似た不協和音。
脳を殴られるような感覚にアリアは吐き気を催し、結界を介しているとはいえ直撃したメアリスも顔を歪める。
予想外のことであったのか、ガグも頭を押さえて体勢を崩していた。
唯一、誰よりも分厚く強固な結界を敷かれていた少年だけは衝撃に怯えつつも、むしろ恐怖から押し出されるように最奥へと走り続けていた。
爆音によって強引に共鳴させられる地下空洞は悲鳴を上げるように震え、絶頂を過ぎて尚音の残骸が飛び回っている。
「アイツ…加減を知らねぇのか…頼むぜ、マジで…!」
彼は息を切らせながらブツブツと何かを溢し、彷徨う怒りを投げやるように二人を睨みつける。
アリアとメアリスは予想外の攻撃に体力を削り取られながらも、体勢を立て直し、彼を視界に捉える。
「まあ、良い…これでフェアだろ。邪魔な奴も消えたし———」
そうして———
「———仕切り直しと行こうぜ!」
———力を抜いたように前方へと倒れ込み、音も無く疾走する。
メアリスはまるで気流が空間を抜けるが如く移動する彼へ逃げる隙も無い岩の弾幕を放射。
加えて背後から火の壁による追撃を放つ。
「———地下じゃあそう出力もできねぇよなぁ?」
視界を埋める弾幕を前に、ニヤリと口角を釣り上げるガグ。
「《他解自在・
不快そうに眉を顰める彼女を前に、彼は岩弾を数撃迎撃し、大きく挙動を変える。
「———
軌道を大きく外れ、壁を弾くように縦横無尽に跳び回る。
音も無く、衝撃も無く、風さえ起こさず瞬く間に距離を詰める動きは相対する者の意識の隙間を擦り抜ける。
男は身を僅かに焼きながらも炎の壁を突破し、アリアの眼前へと躍り出た。
アリアは一定の間合いを図るべく背後へと退き、距離を置く。
「《
しかしそれを知っていたかのように振るわれた脚から三日月の如き斬撃が飛ぶ。
風と見紛うソレが鼻先にまで迫るアリアは、瞬間的に思考を加速させ、いつかの戦いで見た時の減速する世界を視界に映す。
そして空間に溶けるように駆け抜ける斬撃を捉えた瞬間、横薙に撃ち払う。
「良い動きだな!聞くと見るとじゃ違ぇ!」
側から見れば、彼女は颯の如き斬撃の存在を捉えると同時、あるいはその前から既に肉体を駆動させていたのだ。
身体機能や技量と比べれば尋常でない反射神経と言えるだろう。
ガグは凶悪な笑みを浮かべると直線で距離を詰め、真正面から仕掛ける。
アリアは先手を狙い彼の傍から斬り上げた。
「《
だが彼は剣戟に合わせ腕を添えることで軌道を逸らす。
そうしてアリアに大きな隙ができた瞬間、片手で腕を掴んだ。
彼女も反撃すべく掴まれた方とは反対側から蹴りを放たんと地を踏み締める。
「《———
———重心が外れ、痛みさえ無いにも関わらずアリアの膝が地面を突く。
彼女は自身でも理解のできない事象を目を剥く。
「重心がブレてりゃあ立てるもんも立てねえよ」
ガグは腕を掲げ、彼女の後頭部に狙いを定める。
「覚えて帰———!?」
しかし振り下ろす直前、彼の足首に絡みついた蔦が彼を軽々と持ち上げ鞭の如き速度で地面へと叩き付ける。
「ぐぉ…!!」
「何処で覚えたのかは知らないが、何とも戦い辛い動きだ」
ガグは無造作な一撃を一身に受けるも、その衝撃さえ壁伝いに逃し切る。
だが足を捉える蔦は未だ健在であり、粉砕せんとする万力が骨を軋ませている。
彼が離脱すべく反撃を試みるも、それよりも早く術式を構築したメアリスが天井と壁を埋め尽くす魔術を展開し、彼を捉える。
「地形は私が支えればいい」
術式に魔力が流れ、オーバーヒートするように輝いた砲口から一斉に魔術が放たれる。
肉体の特性に付随する弱点や反撃、防御術式の可能性を踏まえた一斉掃射は宛ら煌めく夜空の如く。
「————」
メアリスはもはや逃れる場は無い絶命の最中にある男の姿を、しかし鋭さの変わらぬ警戒を込めて見詰める。
翡翠の瞳の中、幾十もの魔砲が鈍色の仮面へと伸びる。
そうしてガグを貫かんとしたその直前———再び異音をメアリスが捉える。
「———来たか」
———彼女がそう呟いた時、ガグの埋まる地面を囲うように撃ち上がる何かがメアリスの魔砲の陣を一瞬にして迎撃する。
その光景の中、メアリスが見たのは空間が揺れ動くような細い衝撃波———言うなれば不可視の矢が魔術を撃ち抜く瞬間であった。
風とはまた違う空間揺らぎ。
魔術との接触に伴う破裂音は大袈裟な程に熱を孕む大気を震わせる。
メアリスは迎撃が止んだタイミングで下手人を探るべく意識を広範囲へと拡張する。
波紋の如く広がりゆく感覚の領域は千里眼の如く。
一瞬にして都市全土を包み込み、片鱗に見えた魔力を頼りに往来する人間の気配を掻き分ける。
だが———
「(居ない…?)」
———その影は何処にも無い。
更に拡張する中、よもや高度な隠密によって身を潜めているのかと考える。
しかし次の瞬間にはそれが間違いであると確信させられることとなった。
「…《
巻き戻るように意識を収束させたメアリスは来る攻撃に魔術を敷き迎え撃つ。
そうして彼女の予見は的中し、直後には障壁を不可視の矢が殴り付けた。
ガグはその隙に跳ね起き、立体軌道を描いて離脱する。
「助かった…死ぬかと思ったぜ」
死の抱擁が如き所業に見舞われた彼は、そう嘯きながら滲み出る焦燥を露わにする。
そんな彼を前に、アリアは姿を現さないもう一人の敵の存在を歯痒く感じていた。
「メアリスさん、もう一人の敵は…」
「…どうやら狙いは私のようだ」
一度目はメアリスを狙い、二度目は彼女の魔術を撃ち落とした。
しかし何故だかアリアを狙おうとはしない。
「分かりやすいね。露骨な程に」
そうなれば相手の狙いは考えるまでも無いだろう。
即ち———
「アリア君」
「は、はい」
嫌に真剣味を帯びた彼女の声に固い返事を返してしまう。
そんな背を向けたままの彼女であるが、アリアには不思議とどんな顔をしているのか分かってしまう。
「何が起きても構わないと、そう言ってしまった手前申し訳ないが…此処をキミに任せてもいいかな?」
「…うん、任せて」
「うむ、感謝するよ」
アリアは間を置きつつも明瞭とした答えを返し、振り返ったメアリスに笑い掛けた。
「———では、頼んだ」
彼女はアリアとすれ違うと、此処にいない誰かへ向ける殺意を宿した金緑の風を纏い、籠る熱気も澱んだ空気も吹き飛ばす。
———そうして、地上へと繋がる道へと消えていった。
残された者達の隙間に金緑の残気が舞い上がり、異臭と湿気に包まれた地底に星を飾る。
「…ったく、やっと消えやがった」
「…お前は此処にボクらが来るのを知ってたのか?」
「さてな。あんな妹妹五月蝿ぇ餓鬼が外に逃げたなら帰ってくるだろ。手土産でも持ってな」
忌々しげに入口の方を見通すガグはアリアの質問に適当に答えると、背後の旋棍へと手を伸ばす。
するりと抜かれたソレは黒を基調とした、大きな特徴の見受けられない質素なものであった。
彼はその柄・を掴むと、腕に沿うように持ち、脱力するような姿勢で直立する。
「さぁて…漸く
「……」
待っていたとばかりに楽しげに嗤って見せるガグに、アリアは猛獣が威嚇するような錯覚を覚え、顔を強張らせる。
彼は両手脚を大きく開き、重心を地に這うように低く構える。
奇しくもその姿は獲物へ飛び掛からんとする獣のようであり、アリアは魔物の幻へと剣を構えた。
「———そんじゃ」
そうして弓の弦が張り詰めるように彼女へと定めていた彼は、アリアが呼吸を整えた瞬間、矢を射るが如く蹴り出し———
「———一発
旋棍を振るう———ことなく回し蹴りを放った。
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