短冊は今年も日を跨ぐ

傘重革

 

街灯が煌々と輝く夜道を、男は一人歩いていた。賑わいはもうない。人々はそれぞれの家で、織姫と彦星の物語に思いを馳せている頃だろう。


男の手には、一枚の短冊が握られていた。真っ白なままの、何も書かれていない短冊。


毎年、七夕の夜はこうだった。


昼間は、あれを書こうか、いやこっちの方が良いかと悩み、夜空を見上げては、よし、書くぞと意気込むのに、いざ筆を持つと手が止まってしまう。頭の中は真っ白になるのだ。


そして、気付けば日付が変わっている。


今年もまた、願い事を書き損ねてしまった。


男は、毎年恒例のこの行事に、少しばかりの虚しさと、諦めに似た感情を抱いていた。


「……別に、いいか」


誰もいない公園に着くと、彼は短冊を笹の枝に結んだ。白い短冊は、他の色とりどりの短冊に紛れ、ひっそりと揺れている。


来年こそは、と毎年思う。だが、来年もきっと同じように、白い短冊を握りしめて、この公園に立っているのだろう。


そう思いながらベンチに腰掛けた彼の目に、夜空に輝く星が飛び込んできた。


都会の空では、普段は星などほとんど見えない。


「……あれは……」


澄み切った夜空には、いつもより多くの星が輝き、その中でもひときわ明るい二つの星が、まるで寄り添うように輝いている。


織姫と彦星だ。


その美しさに、男は息を呑んだ。


「……綺麗だ」


自然と、そんな言葉が漏れた。


次の瞬間、彼の脳裏に、一つの光景が蘇っていた。


それは、幼い頃の記憶。


まだ両親と暮らしていた頃、家族三人で賑やかに七夕を祝った。


「○○の夢はなに?」


母親に尋ねられ、彼は得意げに答えた。


「◾️◾️になりたい!」


「まぁ、素敵!」


「じゃあ、短冊に書いてみようね」


父親が優しく微笑みながら、筆の使い方を教えてくれた。


まだ拙い字で、一生懸命に書いた「◾️◾️になりたい」の文字。


両親に見守られながら、笹の葉に飾った時の高揚感。


あの頃の純粋な気持ち。


忘れていたわけではなかった。


ただ、大人になるにつれて、現実は厳しく、いつしか夢を見ることさえ諦めてしまっていた。


「……そうだった」


男は、小さく呟いた。


星を見上げながら、彼は、あの頃の自分のように、心の奥底にしまっていた本当の願いと向き合っていた。


もう叶うことはないと思っていた夢。


それでも、もう一度だけ。


「……もう一度だけ、夢を見てもいいだろうか」


彼は、もう一度夜空を見上げた。


二つの星は、まるで彼の背中を押すかのように、静かに輝き続けていた。


翌朝、男は文房具店へと足を運んだ。そして、真っ白な短冊を一枚、購入した。


「来年は、もう書き損ねない」


そう呟きながら。


彼の顔には、久しぶりに見た、希望に満ちた笑顔が浮かんでいた。

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