第16話 夢見る少女が辿る道⑦
「……冷めちゃったな」
綾乃のことを話し終わる頃、手に持った食べ物はもう温かさを失っていた。
「その……なんと言っていいのか……」
ヒカゲは僕にかける言葉を探して、でも見つからなかったようだ。
「綾乃の心は、今もあの世界に取り残されている」
唯一の救いは、綾乃自身はその状況を悲観せずに楽しくやっている点か。
現実世界の綾乃が目を覚まさないと本人に言った時も、驚きはしていたが絶望はしていなかった。
だけど、僕はそれが少し寂しかった。だって、そんなのまるで。
「その……帰り方ってないんでしょうか?」
「……わからない。だけど、どうしたら綾乃みたいになるかはわかる」
「それは?」
僕はヒカゲの目を真っすぐに捉えた。
「あの世界にのめり込み過ぎることだ。少なくとも綾乃はそうだった」
現実を忘れるように、夢の世界に没頭した綾乃。
僕はそれを黙って見ていることしかできなかった。
その結果、本当に現実世界へ戻れなくなってしまった。
「僕は、ヒカゲには綾乃みたいになってほしくない」
自然と拳に力が入る。
「司さん……」
何度も思った。僕があの時、もっと綾乃に寄り添っておけば。
夢の世界へ傾倒している綾乃を止めていれば。
全ては結果論でしかないのはわかっていても、飲み込めない感情だってある。
「ずっと、耳について離れないんだ。綾乃が目を覚まさなくなった時に病院で聞いた、綾乃の両親の泣き声がさ」
今でも簡単に思い出せる。嘆きのような悲痛な叫び声が。
苦しいとか辛いとか、そんな感情を全部吐き出すような慟哭が。
ずっと、耳にこべりついている。
「だからさ、ヒカゲにとってあの世界は幸せかもしれないけど、もし夢から覚めなくなった時に残される側の気持ちも考えてほしいなって、僕はそう思うんだ」
ヒカゲがもし目を覚まさなくなれば、きっと同じようなことが起こるだろう。
それは嫌だと思った。僕がというより、残される人の気持ちを考えると。
「司さんは……とても優しいんですね」
ヒカゲが僕に温かい眼差しを向ける。
「今まではエッチでスケコマシなだけかと思いかけていましたが……」
「おい」
「ふふ、冗談です」
「それでも……優しさだけじゃ何も救えないよ」
願えば叶うのはあの世界だけ。現実はもっとシビアだ。
思いやりだけで救えるなら、どれだけ幸せだっただろうか。
「それでもきっと、花森さんには届いてますよ」
そっと、ヒカゲは自分の胸に手を当てる。
「本気で自分を心配してくれる気持ちは、きっと伝わってます」
「……」
「私には、ちゃんと伝わりましたから。だからきっと、花森さんにだって」
ヒカゲはぎこちない笑みを浮かべた。
だけど、それが僕の胸にすっと優しく染み込んでいく。
「……ありがとう」
自然と、感謝の言葉が漏れた。
「私も、誰かを悲しませるのは嫌です」
少し目を伏せながらヒカゲが言う。
「でも、どうすればワンダーランドはなくなるんでしょうか?」
どうすればあの世界が消えるのか、僕にはわからない。
でも、綾乃の言葉から考えられそうな言葉はあるかもしれない。
「夢に浸り過ぎない、とか?」
「それって……具体的には?」
「ちゃんと、現実とも向き合うとかな」
「現実と……」
「ワンダーランドが生まれているってことは、ヒカゲにも逃げたい現実があるんだろ?」
「わ、私は……」
ヒカゲの表情が曇った。
ワンダーランドは行き過ぎた現実逃避が生み出す世界。
見方を変えれば、世界を新たに創造してしまうほどの逃避を抱えているとも言える。
そんな子に、僕は現実と向き合えと言ったんだ。
厳しいことを言った自覚はある。でも、僕にはそれしか言えない。
優しすぎる言葉をかければ、たどり着くエンディングは一緒なんだから。
きっと、どこかで現実と向き合わないといけないって、僕はそう思う。
「私……実は、不登校なんです」
ヒカゲは、俯きながらそう言った。
「それも……いじめとかじゃない、ただの不登校なんです」
「そうか」
「お、おかしいですよね。たかが学校へ行けない程度でワンダーランドを作るなんて」
自虐するように、ヒカゲが笑う。
「べつに、おかしくはないだろ」
だけど、僕はすかさずそれを否定した。
「ヒカゲにとっては、それくらい大きいってことだろ?」
「え……」
「心の痛みの大きさなんて、誰かと比べるものじゃない。綾乃がいじめによってワンダーランドを創り出したって、ヒカゲが学校へ行けなくてワンダーランドを創り出したって、何もおかしいことはない」
心の痛みなんて、正味それを直で感じてる本人にしかわからないんだ。
外野が心配するほどのことがあっても、本人からしたら全然ノーダメだったり。その逆も然り。
痛みの大きさは人それぞれで、物差しで定量的に測れるものじゃない。
「心なんて見えないものを比較したって無駄だよ。自分が辛かったら、辛いでいいんだ。自分が痛かったら、痛いって叫んでいいんだよ」
「司さん……」
むしろ、痛かったら叫んでくれないと、本人の限界は見えない。
綾乃の時はそうだった。隠されたら見えないから、心の傷は大変なんだ。
「それにな、べつに学校なんて行きたくなきゃ行かなくていいんだぞ?」
「でも……そんなの……」
「学校は、行かなきゃいけない場所じゃない」
「でも……お母さんを心配させないためにも……行かないと」
「このまま夢の世界に没頭して、いずれ覚めない夢を見続けるよりマシだと思うけど?」
「で、でも……」
「勉強なんて家でもできる。学校が合わないなら自分で勝手に勉強すればいい」
今の時代、勉強しようと思えばその辺に教材は転がってるからな。
動画サイトの動画の方が、先生より教え方が上手い可能性もある。
「ただ生きていてくれれば……それだけで十分だよ。少なくとも、僕はそう思う」
いじめが辛いなら、家で勉強して、高校受験は気合いで乗り越えて、一緒に楽しい高校生活を送れれば、僕はそれだけでよかったんだ。
あんな世界のせいで、綾乃の未来が奪われて、今も彼女は夢の檻の中だ。
「学校へ行かなきゃいけないのに行けないのがヒカゲの現実逃避なら、まずはその考えから変えてみたらいいんじゃないか?」
「それで……いいんでしょうか?」
「僕はいいと思うぞ。勉強したきゃ家ですればいいし、友達と遊びたきゃここにいるしな」
「とも……だち……?」
そこで不思議そうに首を傾げないでほしい。
「なんだ? 僕たち、友達じゃなかったのか?」
「え……その……」
「違うのか? オフ会って友達とやるものだと僕は思ってたんだけど」
「ち、違わないです!」
「よかった。僕の認識違いじゃなくて安心したよ」
僕はポケットから携帯を取り出してヒカゲに見せる。
「友達記念に、RINEでも友達になろうぜ。そうすれば現実でも好きな時に連絡を取れるし」
「あの……私……RINEやってないです……」
「……ん? もしかして僕は今振られたのか?」
RINEやってないって、興味のない男から連絡先を訊かれた時に使うカウンターだって聞いたことがあるんだけど。僕はそれを使われている。
「ち、違います! 本当にやってないんです!」
ヒカゲが慌てて自分の携帯を取り出して、僕に画面を見せてきた。
画面を念入りに確認しても、本当に例の緑アイコンはなかった。
「……マジか」
この情報社会と言われる現代、まさか学生の必須ツールを持ってない人がいたとは。
……世界はまだまだ広いな。
「あの……メッセージを送る相手もいないので……ずっと一人なんで……」
理由が切なすぎる。
「でもなぁ、せっかくなら今日ヒカゲとオフ会した記念が欲しいなぁ」
「そう言われましても……」
「あ、そうだ」
僕はあることを思い立って、ヒカゲの肩を抱きよせる。
「え、あ、ちょ、つ、司さん!?」
「暴れるなって」
「いや、でも、これは、ええ!?」
そのまま僕もヒカゲの近くに顔を寄せ、携帯を前にかざした。
確認、よし。ヒカゲと僕がちゃんと枠内に収まっていることを確認して、僕はシャッターを切った。
乾いた撮影音が静かな公園に響く。
「ヒカゲ……変な顔してる」
記録に残ったヒカゲは、戸惑いのあまり表情が崩れていた。
「だって……あんな近くに……」
「撮りなおす?」
「か、勘弁してください! 急になにをするんですか!?」
猛烈に拒否られた。少し寂しい。
「オフ会の記念の撮影。思い出に欲しかったらRINEを入れるしかないなぁ」
「司さんの……スケコマシ……」
「それは前向きに検討する。の意味でいい?」
「……はい」
「スケコマシって、色んな使い方があるんだな」
勉強になります。
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