パープル②

 市架はその後、慌てて校舎に一旦戻り、ちゃんとSHLを終わらせてから柚希の元に戻ってきた。

 彼女を待つ間、柚希は表面上つんとした顔でその場に留まっていた。心の中では恥ずかしさなどで暴風雨が迸っていたが、嫌な気はしなかった。これは善い感情だ。でも柚希はにくからず思う女の子とこんなふうに深いところで繋がりあったことがなかったので、やはりドキドキが止まらず、むしろ少女漫画のヒロインみたいな画風で空を眺めていた。そのときにはもう空気はからりとしていて、うっすら、でも確かに美しい虹が架かっている。まるで……などと情緒のないことを考えてしまうくらいには、柚希は回復している。

 市架が戻ってくると、二人は目を合わせずにそろ……と歩き始めた。正しく表現すると、市架が目を合わせようとせず、柚希は普段通りに歩いている。核心的な女性体験のない柚希であったが、いまはドキドキの原因である市架が隣にいるというのにどうしてか彼女の存在に安心感を覚えていて、むしろそれ以外のことに頭が向かっていた。すなわち現実だ。なんだか全てが解決してハッピーエンド! という空気だけれど、解決したのはあくまで柚希のメンタルヘルスだけであり、柚希の──ワズキの周りを取り巻く炎からはけして逃れられてはいないのだ。

 柚希はチラと市架を見た。柚希の目には、彼女は居心地が悪そうに見えた。もはや言うまでもないので柚希の恋心の詳細は省くけれども、柚希が彼女をそういう意味で慕い始めているからといって、市架自身もそうであるとは限らない。というかそうじゃない可能性の方が高いだろう。柚希はただその道のプロから先達として心を治してもらっただけなのだ。柚希はもう大丈夫。だから、彼女の庇護から離れなければならないのではないだろうか? 共倒れになってしまったらと思うと胸が苦しくなる。


「あのさ──」


 柚希が市架に話しかけようとしたとき、背の高いサラリーマンとすれ違った。柚希は言葉を選ぶために一度口を閉じる。結果的に、それは正解だった。

 一人分の足音が突然止み、柚希は背後から声をかけられた。大人っぽいさらりとした声だった。でもなぜか、エクスクラメーションマークがかなりたくさんくっついてきている。


「君は!!」

「え?」

「君は、あのときの!!」


 市架は咄嗟に柚希を庇うようにして肩越しに振り返ったが、生身では柚希の方が早かった。柚希はサラリーマンの顔の造形をまず見て、その後に全体図と内側の身体つきを確認する。たぶん知り合い。でも、柚希はこんな皺ひとつないスリーピースを着用している小洒落た大人の男性とは会ったことがないような気がした。

 となると──……柚希はまたネガティブモードに入る。ああ、この人はワズキとしての自分を一方的に知っているのだ。きっと彼も幻滅したのだろう。見たところ良い人そうだから、そのぶん失望も大きかったに違いない。

 柚希が勝手に苦しんでいると、サラリーマンはつかつかと柚希に歩み寄ってきて、懐に手を入れた。こうなれば市架も黙ってはいられない。「あなた──」と果敢に、しかし不安げに立ち向かおうとする。柚希は咄嗟に彼女の手をひいて後ろに隠そうとした。だが、サラリーマンは思いもよらないものを手にしていた。


「──今日こそ何か奢らせてもらうよ」


 めっぽう高そうな長財布だった。


「……は、はあ?」


 柚希は混乱して市架の手を離した。市架は、ああ、厄介ファンね……と勝手に納得した。柚希は慣れていないので、頭をガシガシ掻きながら「つかぬことをお訊きしますが……」とサラリーマンを凝視した。


「誰かと勘違いしてるんでは、ないかと、思うんですけど……」

「無論、君で合っている。三沢君……そしてワズキ君。それにそこのルチカ嬢も」


 これには市架もびっくりだ。なにせ今は長い黒髪に野暮ったい眼鏡の世を忍ぶスタイル。再び警戒レベルを上げ、サラリーマンを微笑で睨む。

 しかし柚希はサラリーマンを見つめているうちに、何かが蘇ってきた。特にあの財布には見覚えがあった。しばらく記憶を辿っていると、思い出すより先にサラリーマンがさらりとタネ明かしした。


「忘れたかね? 私は君に小銭を拾われ、ジュースを奢ろうかと提案した者だ」

「ああ! あの!」


 ようやく合点がいった柚希に、「……本当に知り合いなの?」と市架は怪訝に眉を寄せた。


「ええ。今の今まで忘れてました、だって……」


 いつものことだし、と心の中で続けつつ、サラリーマンに視線を戻す。サラリーマンは何か言いたげにしていた。二度ほど口を開いて閉じる意味のない動作をしていたが、やがてハッキリと言い放つ。


「そして──君を捨てた事務所の社員でもある」


 「……っ?」と柚希は喉がつかえたような音を出した。急に、街の雑踏が耳に入ってくる。ざわざわと揺れる青い木々、暑い日差しを照り返すアスファルト、それをジャリリとつっかけながら歩く、もしかすると今すぐに振り返って柚希を糾弾するかもしれない人々。

 柚希が脳内の時を止めていたのは一瞬のことだった。市架にはまだ事務所のことを言っていなかった。氏は信頼出来る知人への相談を鷹揚に許可したが、告知前からたくさんの人に話して回るのは良くない。だから柚希は未だに黙っていたのだ。誘ってもらったことも、捨てられたことも。

 そっと市架の様子を伺う。怒られるだろうかと不安に思ってのことだったが、意外に、市架は冷静だった。レンズ越しに柚希を真っ直ぐ見つめ返してくる。彼女は柚希を助け起こそうとしてくれるが、あくまで仲間だった。柚希は心を立て直して「それがどうかしましたか」と強気に出る。サラリーマンはあっさり頭を下げた。


「すまなかった。私の一存では君を掬い上げることが出来なかった。誓って言わせてもらうが、我が社の全てが君のことを見損なったわけではない。君は聖人でなくとも、十分に商材として魅力的だ」


 サラリーマンは一度頭を上げた。そのときちらりと柚希の隣を見て、苦笑する。


「すまんねお嬢さん。私達はついそういう見方をしてしまう。訂正しよう……人間として、魅力的だと」


 柚希はようやく、この人は柚希のことを尊重してくれているのだと理解した。再び深く頭を下げようとした彼に駆け寄って、頭を上げさせる。


「気にしていないのでっ、謝らないでください!」


 ちょっと嘘をついたが、今はもう本当だ。こんなふうに真正面から向き合ってくれる人がいたと──氏以外にもいたとわかったから、もう事務所もプロもどうでもいい。氏のプロジェクトは気にかかるけれど……

 サラリーマンがまた姿勢よく起立したのを見て、柚希はまた市架の側まで戻った。無意識である。メッシュを指に巻きつけて下を向く市架を知らず、柚希はサラリーマンに問いかけた。


「あの……まさか、僕のために声を上げたせいで、あなたも会社から捨てられたなんて言いませんよね?」

「もちろん違う。私はつまらない大人だから、そこまで向こう見ずなことが出来なくなってしまった」


 サラリーマンはハキハキと、しかし気まずそうに答えたが、柚希は一転して笑顔を浮かべた。


「よかった!」


 本当によかった、と思った。自分のことを好きでいてくれる人が辛い目に遭っているのは自分も辛い。しかも、こんなに正直で真面目な良い人なんだもの……

 にこにこする柚希に、サラリーマンと市架は顔を合わせ、フッとそれぞれの表情で微笑んだ。


 仮染の聖人。であるからこそ、人は惹き付けられる。


 パッ、と三人の視界の端が弾けた。サラリーマンは比較的ゆっくりと、柚希と市架は素早く振り向いて、その光を探した。鮮烈なそれは、いつかルチカが映っていた交差点の街頭ビジョンから発せられていた。


『やあやあ愚民共! 今日もあくせく働いているかい? この生放送を見ている君は、暇なようだがね!』

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