パープル①

 「きりーつ」と号令がかかった。チャイムの中、七時限が終わり、SHLに移る。窓の外では大粒の雨がグラウンドに叩きつけられ、川のように流れている。夏の雨は短くて激しい。

 市架は委員会の連絡などを聞き流しながら鞄を手にし、側面黒板の明日の時間割を確認していた。後ろの席ではくすくす笑いが聞こえ、前方では生徒と担任がじゃれ合っている。なんてことない日常。しかし、気を取り直した担任が明日の予定を話しているとき、にわかに校内が騒がしくなった。


「待って、聖人来てんだけど!」


 隣のクラスから届いた声に、市架は思わず席を立った。窓際の生徒は同じように立ち上がって「マジかよ」と雨粒で濡れたガラスに張り付いた。

 市架も駆け寄って、窓の外を見下ろした。厚い塀に囲われた校門の外側に誰かがいる。いつの間にか雨は止んでいて静かだった。水滴で歪んだ視界が鬱陶しく、窓を開け放つ。どこからか「えっ!?」と声が聞こえたが関係ない。目を凝らすと、どことなく愛嬌のある顔立ちが見えた。それにとても姿勢が良い。間違いなくワズキだ。

 一方、クラスメイトは突然の市架の奇行に驚愕していた。同じように窓辺にいる生徒までもが訝しげに市架を見つめている。それを知ってか知らずか、市架は機敏な所作で教室を駆け出していく。廊下を短距離走のような細かい足音がこだまする「瑠璃さん!?」と何人かの生徒が二度見した。


「瑠璃市架さん、戻ってきなさい!」


 担任はドアから顔を出して市架の姿を探したが、そのときには彼女は既に一階で靴を履き替えていた。

 市架が校門へ走っていくのを、全校生徒が見ていた。黒目黒髪、野暮ったい眼鏡をした女の子。私立の名門でトップの成績を維持できる頭脳を持ち、なぜか体育も得意な、少し変わった女の子。誰もが彼女のことを普通じゃないと気がついていた。それでも話しかけることなく、知らないふりをしてきた。だからこそ、生徒達は彼女が悪名高い少年に飛びかかるようにして抱きついたとき、ああ……と思った。理屈ではない。ただ、ああ……と思ったのだ。

 市架はワズキを力の限り抱きしめ、それからゆっくりと離れた。ワズキは少し目尻を赤くして市架を見上げたが、市架の頬は真っ白だ。なぜならワズキの顔色があんまりに悪かったからである。市架はワズキの輪郭に手を当て、じっと見つめた。目の下の青い隈は跡になって残りそうなほど濃い。

 しばらくそうしていたが、市架はふと自分の格好を思い出した。胸元には太い三つ編みが下がって、前髪は鼻先まで伸び、目元は分厚いレンズで隠されている。彼女を見て一目で「ルチカだ!」と気がつく者は存在しない。つまり、彼も──


「すみません、急に」


 そう謝ったのは市架ではなくて、ワズキだった。ワズキはいつものように心根の滲み出るような優しい笑みを浮かべていた。どこまでも穏やかで、優しい気配。照れたように頬を掻き、眉を下げる。

 それを見たらもうだめだった。

 市架は苦しくてたまらない胸で浅い呼吸をしながら、彼の少し痩せた手を掴んだ。市架の少し硬い両の掌がワズキのそれを覆う。言葉が出なかった。「瑠璃さん……?」とワズキが間抜けな顔をする。


「謝らないでよ!!」


 ワズキは──柚希は困惑した。半ば押しかける形になってしまったのだから、謝るのは当然のことだ。けれど市架が言っているのはそのことではなかった。


「刑法246条、人を欺いて財物を交付させた者は10年以下の懲役に処する──」


 市架は唐突に何かを諳んじた。柚希は眉を寄せ、口を噤む。


「でもあなたは違う。欺いてなんていない。嘘もついてない。これは本物の詐欺じゃない。だから、悪いことなんてしてないの」


 柚希はそこでようやく自分の身に降り掛かっている火の粉を思い出した。そのくらい、柚希は市架のことだけを思ってこの場に現れたのだ。

 市架の、ルチカを思わせる強い眼差しに、柚希は息を呑む。


「もし仮に、仮にだよ? キミが悪いことをしていたのだとしても、それはキミを知らない人が好き勝手に酷い言葉を投げつけて良い理由にはならないでしょ」


 柚希は急にそんなことを言われて閉口する。もう何度も考え、自分が悪いと結論づけてきた命題。しかし市架は一枚上手だった。


「キミは私がそうされていたら怒らないの?」

「怒ります」


 反射的に答えてしまい、柚希はばつの悪い表情を浮かべた。でも本音だった。ゆったりと市架に微笑まれ、下がりきった眉尻はもっとへんにゃりとする。


「ブランディングって知ってる? 人間、誰しも少しは相手に自分をよく見せたいと思うものだし、私もそう。本当はこんな……普通の女の子なんだから」


 「エゴサも出来ない女の子?」と柚希はつい口を挟んだ。すると市架がこちらを睥睨したので、柚希は身を竦める。


「……キミ、割とずけずけ言うタイプなのね?」

「すみません……」


 市架はくすりとしてから、自嘲的に目を伏せた。


「……そうね、私はエゴサなんて出来ないわ。したくない。もし“それ”を見てしまったら、立っていられなくなる」


 “それ”とは誹謗中傷のことだろうか? 柚希はそう思ったが、市架の遠くを見るような表情を見ていると、そうではない別のことを言っているように感じられた。しばらく考えてから答えを導き出す。


「“期待”……ですか?」


 柚希はまだ考えながら顎を摩っている。


「いや、ちょっと違うかな……“理想の姿を強制される力”みたいな……そういうものでしょうか?」


 市架は答えず、ただ目だけで微笑んだ。そのとき柚希は、どうしてか、ようやく自分を許していいんだとわかった。不可思議な納得の筋道は頭の中のスイッチを入れ直して回路を繋いでいく。それを俯いて、じっとして、感じ取る。柚希の足の浸った水溜まりに青空が映り込んでいる。

 柚希がやっと顔を上げると、市架は話を戻した。


「法律的に問題は無いの。倫理的にもね。だから悪くない。謝らなくていいの。……わかった?」


 「……うん」と素直にうなずく。すると、市架が今日はじめての満面の笑みを浮かべた。真っ黒な容貌が嘘みたいな、だけど迷宮を歩くルチカともまた違う、彩度の高い鮮やかな笑顔だった。


「宜しい!」

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