大好きな人

*

「あの男の子とは関わっちゃ駄目!」


 市架の母はいつものように干渉してきた。美しいかんばせは鬼の形相。その手には型落ちのスマートフォンが握られており、市架は何も言えず黙り込んだ。


 母が彼女に過度な干渉をしてくるようになったのは、父親が死んでからのことだ。干渉には良いものも悪いものもあった。成績が廊下に張り出されたトップ十までに収まらなければ、「どういう教育をしているのか」と学校に怒鳴り込んでくる。河原で子供らしく遊んでいれば目を吊り上げて「病気になったらどうするの!」と手を引っ張り、それから一週間は絶対に外出させない。かと思えば突然正気に戻ったように市架を抱きしめる。枚挙にいとまがない母の悪癖は、市架に鎖のように絡みつき、中途半端に自由を奪った。

 万事が万事こうなので、発端の父親を市架が薄っすらと恨むようになったのは当然の成り行きだった。驚くべきことに、母は父をそれほど憎んでいないらしかった。仏壇も何もないただの写真立ての遺影に毎日ご飯を供えた。もちろん線香も。だが口では罵り、たまに遺影を投げ捨てて表面のプラスチックを割った。わけがわからなかった。だからこそ市架は、父のことを知らなければならないと強く思った。

 父親は迷宮省で働いていた。と、市架の年の離れた兄はむかし家にいた頃に言っていた。それ以外のことは教えてもらえなかったから、市架はインターネットで父の名前を検索エンジンにかけた。しかしセーフティのようなものに引っかかったのか、結果はゼロ件であった。何かある。そう市架は幼心に思った。だから無邪気を装って兄の隠れ家に転がり込み──市架はそのあと一ヶ月間家に軟禁された──、今しがた起こったことを教えると、兄は溜息をつき、「つまらないものを見てしまうくらいなら……」と口を割った。

 父は若くして迷宮省で働く中堅の役人だった。当時の迷宮省は、多発していた子供の迷宮死によって世論の風当たりが強かったから、父の職業は近所の人には内緒にされていたという。そうすべきだと言ったのは母だったと思う、と兄は言った。市架は意外に思った。確かに母は内側に籠もる性格をしているが、市架には頭抜けた成果を強く求め、それを誇りに思ってママ友に得意げに話していたようだったから。困惑する市架に、「そのくらい愛してたんだよ」と兄は寂しそうに微笑んだ。

 母は充分に警戒していた。でも、父はそうではなかった。ひりつくような空気の世だったが、そんなとき、よりにもよって子供の人身売買に関わる不祥事が起こった。その責任を押し付けられたのが父だった、と兄は目を逸らしながら言った。賢い市架は「ああ」と思った。父は本当に関わっていたのだ。兄の言葉は、市架を気遣った嘘だ。一架はそれについては咎めず、先を聞いた。とは言ってもほとんど終わりに差し掛かっている。父は責任を追求され、失脚し、批判の嵐に疲れて自殺した。そして母は行く宛のない愛を市架に押し付けるようになった。家出した兄は、受け取ってくれなかったから。

 市架はやっぱり父を憎むことにした。そうしないと、母が、あまりに可哀想だった。市架はもう“毒親”という言葉を知っていたけれど、母をそのようにカテゴライズするには、母を愛しすぎていた。


 この日も、市架は口を挟まずにやり過ごしている。母は遺影を壁に叩きつけた。母の小さな体躯が、ぜえぜえと大きく息をしている。


「ほんっと、男って勝手。ずっと逃げてばかりじゃない!」


 「そんな言い方──」と心の中で思うより先に、母は床に膝をついた。


「──私は死ねないのに!! ……男はいいわよね、一人で終わることができるんだから……」


 終われなかった女はそう言ってさめざめ泣いた。

 市架は学生鞄をフローリングに置くと、目元を覆うように長い墨色の前髪を掴み、おもむろに引き剥がした。内側から金色の髪が現れる。

 これも母の干渉だ。父の汚名から逃げるために転校した先で、市架はいじめられた。だからその美貌を隠してまた転校したのだ。奇しくもそこは母の母校だった。市架は母の頭脳と父の狡賢さを受け継いでいたから、その中高一貫の他称進学校は肌に合って、今までうまくやれている。


「ごめんね、お母さん」


 一架は初めて口を開いた。ゆったりとした動作で質の良いブレザーを脱ぐ。

 迷宮には元々惹かれていた。理由は無かった。父と兄の血を引いているのだ、と拙い言い訳をしなければならないくらいに。市架は迷宮に携われるなら何でも良かったが、迷宮省を目指したり道具屋に弟子入りしたりはしなかった。配信者。その道を選んだ。それは、確固たる実力で全てを黙らせるためだった。

 母は反対していた。食事を抜かれたこともあった。でも空きっ腹を摩りながら学校帰りに迷宮に寄ってボロボロで帰ってくる娘の姿に、母も折れた。途中からは金銭的に応援すらしてくれていた。投げ銭と再生回数で還元すらできるようになってからも、母が増やしたお小遣いを減額することはなかった。

 だけど、こればかりはそうもいかないのだろう。


「あの人は大切な仲間なの。だから、これからも一緒にいるよ」


 市架が微笑むと、母は狂ったように頭を掻き毟る。


「嫌! 嫌よ、市架……あなたまで失うなんて……」

「……大丈夫だよ。私は絶対に一人で終わらせたりしない。仲間みんながいるから」


 自分達を売った男の娘だと知っていながら、それでも信頼してくれる、そんな仲間が。

 市架は母の背中を抱きしめた。老人のように骨張っていて、側で見ると、まろい稚気な顔立ちのラインも微かに削げ落とされている。美貌の女はしばしじっとしていた。娘の体温を噛みしめるように、フローリングの冷たさを思い知るように。

 どれだけ時間が経ったろう。窓の外が暗くなった頃、母は呟いた。


「……私はあの人の居場所になれなかったのかもしれないわね」


 「お母さ──」市架は思わず目を見開いたが、母が振り向き、彼女を正面から抱きしめたことで黙らせられた。


「…………好きにしなさい」


 甘い匂いがした。市架の背に回される母の腕は細くて、でも力強い。


「……ありがとう、お母さん」


 市架は微笑んだ。いつの間にか成長した、若人の表情だった。

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