炎上④

『散々連絡無視しやがって』


 柚希が震える指先で受話器ボタンを押すと、速攻でそんな神経質そうな機械音声が聞こえてきた。柚希は混乱しながら「え……」とクエスチョンマークを発する。


『何が“え?”だ。何が。寝惚けてるのかい?』

「……誰ですか?」

『お前の大好きな博士だよ。……本当に寝ぼけているな、これは』


 心底呆れ返ったように言われ、柚希は硬直する。失望された、と思った。ここまでくると柚希はこの世の失敗は全て自分の咎だと感じていたので、そう勝手に悟って新鮮に絶望した瞬間の心は、筆舌に尽くし難い苦しみを纏っていた。

 しかし柚希が再びバッドに入ろうとする前に、氏は言った。


『今更逃げるなんて許さないぞ、三沢柚希』


 氏の声は失望なんてしちゃいない。


『──世界を変えるんだろう!?』


 時が止まった。と、思った。何がなんだって? 柚希は頭が急にまっさらになって、全ての分子の動きを止めたみたいになって、ハクリと息をした。目を覚ましてから一番まともな呼吸だった。

 だから、柚希のガキ臭い青々とした感情が噴き出るのは、自明の理であった。


「──見捨てたくせに!!」


 金切り声。自分が何を言ったのかわかっていないくらい心が叫んだ。柚希は繰り返し、「見捨てた! 僕を! 僕を見捨てたくせに!」とみっともなく泣きじゃくる。ぼたぼたと毛布に涙が落ちて、しみを作った。オエッと吐きそうになりながら、柚希はマットレスに頭を打ち付けてのたうった。


『は?』

「だ、だって……事務所……僕……」


 もだもだ、もだもだ。柚希は胎児の寝返りみたいに横になって丸まる。喋りながら、いま喋っているのが自分であることに気がついて、唇を噛んだ。じんわり耳が赤くなる。自分が事務所の掌返しに対しショックを受けていることに初めて気がついた。


「……僕は……」


 声が震える。


『…………まさか、知らないのか?』


 ここに来て氏が初めて焦ったような声を出した。柚希は眉を寄せ、黙った。氏は端的に言った。


『……SNSを見てみろ』

「……何で……?」

『いいから早く!』


 「で、でも……」と柚希はもごもごする。八つ当たりしてしまった手前強く出られないものの、自らスマートフォンに手を出すことは自殺用の縄をホームセンターに買いに行くのと同じくらい危険なことであると、いくらか頭の靄が晴れた柚希には理解出来ていたのだ。

 しかし、氏は頑なだった。機械音声ではない生の男の声が柚希の耳を劈く。


「我輩を信じろ、三沢柚希!!」


 びりびりと電撃が走った。柚希が逡巡したのは刹那の間だけだった。柚希は探索者だ。やると決めたら、もう迷うことはない。

 SNSを開く。ホーム画面は他愛のないポストで埋まっていたが、一秒もすれば最新のものに更新される。そこに映っているものは、検索避けをしているものもあれど、どれもこれも“聖人”についてだと一目でわかる。しかしその中にぽつねんと流れ着いた一本の動画があった。十万いいねを獲得しているそれは、金髪に瑠璃色のメッシュの入った美少女のアイコンを持つ@Luchica──ルチカの投稿だ。

 柚希は震える手でそれをタップした。拡大された画面で、よく知っている女の子がカメラに向き合う。それは十秒にも満たない時間だった。


『私は彼を、今も、尊敬しています』


 そんなたった一言。真摯な瞳が柚希を見据え、ぷつりと動画が切れた。

 「あ……?」と喉が勝手に音を立てる。柚希は混乱していた。炎上に対して第三者がリアクションを取るのは自殺行為だ。一時的に飛び火するだけならまだいいが、その筋の、誰かを貶めることに躍起になっている層にターゲティングされてしまったら、発端の炎上が鎮火されても被害に遭い続けることになりかねない。プロ意識の強いルチカがそのことをわかっていないはずがないのに。

 どうしよう。ルチカが誰かに悲しいことをされてしまうようなことになったら、自分は……。柚希は動画からポストに戻り、スワイプする。リポストは五万ほど。リプライは……と慌てて目を通していき、柚希は絶句した。


[ルチカが大衆にコメントしたのって何気に初じゃね?]

[─エゴサもパブサもしないって言い切ってたもんな。ミュートワード設定してるとか何とか。それもあって誰も検索避けしようとしてないんだけど……]

[──そのせいで聖人もルチカと同じように扱われがちなのが不憫だよな〜]

[俺、この子のこういうとこが好きなんだよ!]

[─それな! アンチ見てるか〜? ワイらは顔ファンじゃねえんだわ!!]

[この子にここまで言わせるとは……これはさす聖]

[─ルチカ、最近楽しそうだったもんな]

[──出た〜古参面〜]

[───ま、俺達はそんなルチカ達だから推してるんだけどなw]


 批判が、ない。いや、ちゃんと全てのリプライを読めば存在しているのだろう。しかしざっと目を通しただけでは見つけられないほどに、このポストに反応したファンは、温かかった。


「人徳、か……」


 柚希のではない。ルチカの人徳だ。画面に雨が降ったので、柚希は寝間着の裾でそれを拭った。けれど次から次に雫が滴る。柚希はスマートフォンに頭を擦り付けるようにして、嗚咽した。溢れ出すような涙ではなかった。胸の中から滲み出して、自分でそれを涙という箱に入れてやって処理する、そういう涙だ。

 ちゃんと泣くと、思いのほか心というものが急激に動き出していくのがわかった。柚希は手の甲で目元をぐしぐしと拭って瞼を腫れ上がらせながら、SNSを巡回した。悪意に埋もれているだけだった。柚希の繋いだ縁は、まだそこにあった。ウミとハナ、コラボしたアマチュアのナルサワ達の引用リポストや空リプがたくさん、本当にたくさん、タイムラインを流れていった。

 また、DMは、批判や擦り寄り視を避けたのだろう表立っては擁護出来ない人達からも届いている。知らない名前もあった。知っている名前も、まさか本物? と疑いたくなるような名前さえあった。柚希はそのひとつひとつにハートマークのスタンプを押していく。ちゃんとした返信とお礼はもう少し落ち着いてからにしようと思ったのだ。

 最後の「ずっと待ってます」に既読をつけたとき、また新たなDMが届いた。そんなことが五回くらいあってから、やっと柚希の真っ青なDM欄が白く染まり、柚希はほっと息をつく。そして一番上にあるウミとハナのアカウントを選ぶと、“連絡気が付かなくてごめん”と簡素なメッセージを返した。既読は秒だった。


“いま電話中? 繋がらないんだけど”


 「えっ」と柚希は驚いてスマホをベッドに落とした。


『なんだ? 急に静かになったと思ったら泣きじゃくって今度はドタバタと……』

「あっ……すみません。忘れてて……」


 そういえば氏と電話している最中なのだった。

 氏は忘れられていたことに腹を立てることもなく、「それで」と促す。


『どうだった?』

「言う通りでした。気がついてよかったです。あの、ありが──」

『そうか。ではな』


 ツー……ツー……と寂しい音がして、通話が切れてしまう。柚希は呆気にとられてスマホをしばらく見つめていたが、不意にふっと笑った。ウミとハナのDM画面に戻って受話器マークをタップする。


『もしもし〜』

「あ、僕です。ワズキ。あの……電話終わったので、掛けたんですが……」


 柚希は首の後ろを触りながらそわそわとした。不安と気恥ずかしさがないまぜになっている。

 すると、スマホの向こうで息を呑むような音が聞こえ、それから「ったく!」「もう!」と同時にむくれる声がした。柚希はちょっとびくっとなる。本心では、偽っていたことに怒っていたのだろうか……?

 しかしそんな柚希に構わず、ウミとハナは好き勝手に喋りだした。


『今度の週末だけど、何時頃空いてんだー?』

『新しい“路”が見つかったらしくて、一緒に行きたいねって話してたんだ。どうかな?』


 打って変わって気楽そうな声。柚希はそれが年上の彼らの気遣いであるとわかった。胸が熱くなる。


「うん……行く、行きます!」

『じゃあルチカにも連絡しとくけど……その前に、あいつと会っとけよ?』


 思いもよらない指示に、「え?」と固まる。四人で会うんじゃ駄目なのか? 心に浮かんだ当然の疑問に、ハナがくすりと笑って答えた。お姉さんの優しい御助言だった。


『すっごく心配してたんだ。……よろしくね、聖人さん?』

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