炎上②
柚希はまたベッドに転がっていた。まるで磔にされたかのように、ただじっと天井を見ていた。柚希の枕元には皺の寄ったメモ帳が落ちていた。暗くてよく見えないが、何かが箇条書きで記されている。
炎上が起こってから今日まで何もしていなかったわけではない。そも柚希は勤勉だ。秘匿と暴露の善悪は置いておいて、何かあったときのために一応法律関係のことは軽く攫っておくくらいのことはする。しかし、こちらから出来ることは少ないという結論が下されるだけで、大して成果はなかった。
個人情報というものは多岐に渡る。氏名、性別、生年月日、住所等々。それらをネットにばら撒いたならそれ相応の罰が下るのは、子供でも知っている事実だ。しかし柚希が暴露されたのはユニークスキルだけ。そして、ユニークスキルは迷宮由来のものであることは言うまでもない。そして迷宮関係の諸々は……まだ、法整備が進んでいなかった。
逮捕されないラインを意図的に見極めたような狡賢い手段。あの鑑定スキル持ちの配信者はさぞかし頭がキレるのだろう、と柚希は半笑いになるしかない。
もちろん、裁判を起こして柚希自身が判例となるという手もある。しかし柚希は腕っこきの弁護士の宛なんてないし、莫大な金額を出すには少しだけ貯金が足りないし──もう柚希に投げ銭してくれる人はいなくなるだろうし──、母に迷惑をかけたくないので
階下から「ご飯よー」と声が聞こえた。柚希は「はぁい……」と本人としては声を出したつもりの返事をし、半身を起こした。そしてまた目眩。目と目の間の距離しかない視野で体温計を探し、脇に挟み込んだが、一分ほどでピピッと下された体温は三十七度もなかった。風邪じゃないなら、どうすることもできない。おかしいな……と柚希は首をひねる。確かに身体が重くて頭がクラクラするのに。
階段を降り、麦茶とグラスを二人分用意してダイニングテーブルにコトリと置く。ふわりとチキンの出汁の匂いがした。母がキッチンから皿を二つ持って現れたのだ。つやつやの卵にニコちゃんマークのケチャップ、立ち上るほかほかの湯気。柚希は目を輝かせ──たつもりで──、手を叩いて椅子に座った。母は仕方なさそうな顔でランチョンマットに皿を置いて席についた。「いただきます」と二人で手を合わせ、スプーンを握る。そっとオムライスを掬うと、みじん切りの玉葱やピーマン、人参などの混ざったチキンライスが顔を出す。ぱくりと頬張るとトマトの酸味と卵の優しさを感じた。
柚希は一度麦茶を飲んで、またスプーンを握った。テレビがワヤワヤ笑っている。柚希は喉が詰まったような顔で引き続きオムライスを食べ進めた。一足先にスプーンを置いた母は、柚希をじっと見つめている。
バラエティがニュースに切り替わってしばらく。ダイニングテーブルに肘をつき、母は眠っているようだった。柚希が二人分の皿を持って流しに向かったとき、母が唐突に口を開いた。
「やめてもいいのよ、迷宮配信」
いつの間にやら息子のバイトを知っていたらしい。……まあ、そりゃ気づくだろう。ワズキは今やネットニュースに殿堂入りしている時の人だもの。
柚希はスポンジに洗剤をつけながら、眉根を下げる。彼にしては怜悧な表情だった。その冷たさの向かう先は外側ではないことを、家族だけが知っている。
「ううん。……続けるよ」
二枚の泡のついた皿をすすぎ、カゴに入れた。
きっと辞め時なのだろう。でも、その前にすることがある。
PCにカメラを取り付ける。接続を確認して、臆病風に吹かれる前に配信を開始した。
炎上してから配信の枠を取るのは初めてのことだ。思った通り、一秒と経たないうちからコメントが書き込まれる。堰き止められていた濁流が一気に開放されて氾濫するみたいだった。誹謗中傷が、目にも止まらぬ速さで流れていき、柚希はそれを無駄に良い動体視力で捉えてしまって喉をひくつかせた。
「今日は……」
柚希は一度言葉を切った。声が裏返りそうだったからだ。
「僕が、ユニークスキル『ログインボーナス』を秘匿していたことについて、お話したいと思います。まずは──」
コメントを見ていると引き摺り込まれそうで、柚希はカメラのレンズだけを見て淡々と喋る。
鑑定スキル持ちの配信者が流した情報は概ね正しいものであること。自分はそれを意図的に隠していたこと。それについて申し訳ないと思っていること。
頭の中の箇条書きにチェックマークをつけていくにつれて、柚希の心拍数は跳ね上がり、まるで魔獣と戦っているときのように内側から骨を圧迫した。
[なんで今更話すの? 隠してたんなら、せめて貫き通せよ。キャラじゃないことしないで欲しい]
「……そう、ですね。ですが、リスナーの皆さんには……出来る限り真摯に向き合いたくて……」
[真摯(笑)]
[聖人しぐさやめろ]
[もうただの厨二病じゃん。見てらんねー]
容赦ない弾幕に、柚希はナイフで刺されたような気持ちで息を詰まらせた。
でもリスナーはこれまで、柚希にたくさんのお金や褒め言葉をくれた。何かを切り崩してまで向き合ってくれていた。ならそれに応えなければならない。
柚希は頭の中に埃のようなものが積もっているような感覚を覚え、指先で額を摩った。脂汗でべたついた前髪に触れる。
「……もともとストリーマーになったのも、私的な目的のためにお金を得るためであって、隠し事のない清廉潔白な人間ではありません。僕は聖人ではありません。普通の人間です。期待に沿えず、申し訳ありませんでした」
…………あっ。少し、かんに障る言い方になってしまったかも……
首筋は冷たいのにだらだらと嫌な臭いの汗が垂れていく。コメントを見ると、案の定「何キレてんの?」と吐き捨てられている。心臓がギシリと乾いた粘土みたいに罅割れたように感じられた。しかもその拍子に、チリ、と指先がブレて額が切れてしまう。そういえばずっと爪を切っていない。下を向くと、よれたネクタイが見えた。だらしのない格好だ。カメラ回してるのになあ、と明後日のことを考える。
タスクというか、失敗、上手くできなかったことが目の前にひたすら加算されて負債になっているような気がして、柚希は一歩後退った。すると裸足の足裏が嫌に乾いていた。親指の先の感覚がない。
「く……クーラー、つけますね」
[話逸らすな]
[私的な目的って何? また隠すの?]
柚希はクーラーのリモコンに伸ばした手を一瞬止め、それからゆっくりと握りしめた。五指が白くなるほどに。きりきりと心の線が張り詰めていく。PCの本体が赤の光を発していた。ちか。ちか、ちか、ちか。虹色のそれはやがて、青に変わる。頭の中がスーー……ッと白んだ。
「……が……………です」
[は?]
「──長乳ソシャゲに課金するためですッ!!!」
柚希はそう叫んだっきり、ハッハッハッ……と荒く呼吸して、一度前屈みたいに頭を下げて、ガッと目覚し時計を叩き落とすヒロインみたいな仕草で配信終了ボタンを押した。そしてその場で蹲ってずっと倒れていた。朝、目を覚ますと、柚希の心は全然軽くなっていなかった。ただ子猫を逃しただけだった。
天秤の傾きは良心へ。賽は投げられた。もう、二度と柚希は真っ赤な嘘で着飾ることはできないのだ。
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